幸運な病のレシピ( 1506 )夜:お祭りデリカテッセン、道端のご馳走、介護施設で働いている友人と色々と話をした。

【 2019/8/28の食事 】

今宵も雨が降らなかったので、お祭りの屋台食であった。

妻と娘と3人でビールの帰るところまで歩いて、椅子がなかったので道端で食べた。

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帰ってから赤ワインとお土産にしたモツを食べて、足りなかったからレトルトカレーを食べた。
写真を見た遠くにいる息子に、また太ったかと言われた。
安心しろ、30年すれば、お前もこうなる。

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3時位から、介護施設で働いている友人と色々と話をした。
今回の父との体験を日常的に老人と接している人から見てどう感じるかが聞きたかった。

死と接している仕事は辛い。


一番気になっていたのは、8月始めの判断が正しかったのかということだ。

病院に入れて点滴を始めるとどうなるのかを知りたかった。
その方の視線でどう見えるのかを知りたかった。
3時間近く話をした。


僕の考えていることをお話して、父との体験を話し、その方の体験をお聞きした。
心が軽くなった。
聞いてもらうというのは良いことだ。
ナラティブな体験だ。


父は、今回は、生き延びた。

ひと回り小さくなって、酒も飲まなくなって、食事をしっかり食べだしている。

別な形に身体が「メタモルフォーゼ」したのだ。
今の「臓器」の力で生きていける身体に再構築した。
多くの細胞生命が破壊と再生を繰り返して「身体というコロニー」常に適応していく。




「老人が食事を食べなくなること」には意味がある。

食べないと「体が弱る」と言って、点滴するのは間違えだ。
体が弱った(多臓器不全が進行した)から、今の体で生きれるところまで「身体というコロニー」の中で「トリアージュ」が進んだのだ。
弱ってしまった細胞生命から順にオートファジーが進む。
どうやってもその「身体というコロニー」が維持できないところまで細胞生命がファジーし続ければそれが死なのだ。




翻って、若い人でも同じ様に考えることが出来ないかと気がついた。
ガンはもっと積極的に放置するべきなのかもしれない。


病は、トラブルに対して、身体が適応しようとしているから起こるのではないか?
「風邪の効用」と言う本の中で、面白いことが書かれている。
風邪のおかげで、大病にまで進まないですむというのだ。

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)


進化医学では、病に意味を見ているが、もう少し踏み込んでも良い。
「病」とオートファジーの連携プレーである。
masaya50.hatenadiary.jp
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父の昔の写真と比較するとまるで別人である。
顔立ちも変わった。


そして、いつか亡くなる日が来る。
食べなくなり、だんだん小さくなって行って動かなくなる。
父が何日も食事をとらず、顔立ちはデスマスクのように表情がなく、寝ていても声をかければ返事をする。
まるで意味のない言葉だ。
何が見えているのか眠りながら手を天井に向け時を書いているようである。
身体の中で小さな生命が少しずつ死んでいくようであった。

今までであったことのない姿を見ると、僕らはすぐに病院に入れる。
専門家ならばなにかしてくれると思い、すべてのケアを任せる。
そのために、「死」というものを学ぶ機会を失った。
この数ヶ月、とても大事なものを学んだ。

老人が食べなくなるのは異常な姿ではない。
身体のアタリマエの反応なのだ。

まだ来ない、しかしかならずここに来る「死」というものを見た。
それは悲しむべきものでも恐ろしいと思うべきものでもない。
マイクロバイオームにとっては単なるコロニーが一つ終わるだけなのだ。
とは言っても、私達は社会の中で生きる。多くの喜びと悲しみの中に生きる。
氏は本人にとってのものではなく、その人のコミュニティにとっての意味でしか無い。





医学従事者は、「専門家=プロ=商売人」である。
生かすことで金を稼ぐ。管でつないで、延命する。
そんな事は必要ないと今なら断言できる。





今書こうとしている「幸運な病のレシピ」には父とのこの数ヶ月の体験を書かなければならないと感じている。





父は母がなくなった時、後10年生きると言った。守ってくれそうだ。



ヒトは一人で生きるわけではない。
多くの人との「つながり」の中で生きる。
僕も父がいるから生きていける。
実感をした。
酒が止まなかった理由もわかった。





僕は父が死んで、僅かばかりの遺産を遺言通りに執行して、一年経ったら多くのことにケリを付けて、死ぬ。
家族には、これも約束している。
保険金は、子供と妻に渡せる僅かなおき土産だ。
「幸運な病のレシピ」は長い遺言である。
僕がたどり着いた、「生命=食」の意味であり、価値である。



父の食事

今日もしっかり食べた。
少し前からお惣菜を増やし始めている。
今日は、朝作った「夏のお煮しめ」を付けた。
数日前には残していたが、今日は食べてくれた。
明日はもう少し魚を多くしようか。
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「商品化された食事」「政治的に正しい皿の上の栄養学」が『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛颶風高血圧に高脂血症)』を生んでいる。
「病(と医者が呼んでいる災厄)」は食事の反映でしかない。

炭水化物は毒ではない、誰もが抗えないほどに魅力的すぎる。食卓は、炭水化物が中心になり、緩慢で直接的な因果関係の見えない欠乏症を生む。
食事作りは面倒だ、私達が作れなくなったのには理由がある。そして僕は毎日素材から食事を作る。



今日の食事が死に方を決める、明日の食事が生き方を決める。
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