「COVERS」(14)凶器としての土鍋

フェースブックにはカバー写真を設定することが出来る。皆それぞれに気に入った写真をアップロードしてコメントを書く。僕は厨房仕事に欠かせない道具をカバーすることにした。COVERSというのは僕の大好きな音楽家のCDだ。有名な曲の「替え歌」が演奏されている。料理のレシピというのは大昔から家庭でそれぞれに奏でられている音楽のように思う。誰かに習い、毎日奏でる。皆同じ様に見えながら二つとして同じものはない。私達一人一人が違うように。「商品化された食事」は自分らしさを殺す。自分らしく生きるために僕は今日も道具たちと厨房に立ち、料理を作る。このシリーズはこちら



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筒井康隆さんのエッセイでお店で出された鍋焼きうどんに口をつけて、熱くて振りはらい、テーブルのみならずお店を大混乱に陥れる子供の描写がある。


確かに危険な食べものである。一緒に入ったお店で一番最後に来て一番長く時間がかかるのも鍋焼きうどんだ。
同行者が悲しげに時計を眺めるプレッシャーに耐えながらも熱くて食べきれない。
そんな数々の問題を抱えながらも、日本の文化に根付いているのは、そこにしかない至福があるからであろう。


海老天がユルユルと衣から外れ、その衣が旨い。厚めのネギは生すぎず煮え過ぎない。
みはほうれん草と春菊では少し趣が違いながらどちらでも嬉しい。
何と言っても半熟に固まりながら生の趣を残す卵。時折、味噌・ケンチン味のお店もあり、面白い。練り物だったり、麩物だったりするが、付け足しのように見えて、ないと寂しいトッピングが乗る。


一番左の2つは東京時代に買った。底のカーブが他のものと違い(浅く)あまり入らないが煮え方が違う。
鍋は地域や時代でも変遷があるのだろうか。中央の2つは一番のお気に入り。
土が違うのか焼き方が違うのか重く、密度の濃い感じがする、保熱力もあるだろう。

実験をしたわけではないが......。右の上2つは子供と一緒に鍋焼きうどんを食べる(危険を教えるのは親の義務であろう)ためにスーパーで買った。

500円しないで買えるのには驚いた(100円ショップにもあるだろう)。
一番下の一つは母の家にあった。
あまりいいものではない。ここにはないが、電磁調理器で使える土鍋もどこかにあるはずである。
一時期は土鍋でドリアやグラタンも作ったものだ。
東京の下宿で卵一個入れた鍋焼きうどんを食べたことを思い出す。

老いて一人になったならば、野菜に肉に卵を入れてうどんは3-4本と控えめにする。
ああ、今日からでもいい。
確かに鍋焼きうどんは孤独な食べ物である。
それが至福の意味かもしれない。