謹賀新年 2019年の年賀状 「幸運な病のレシピ」「幸運な病のスタディ」の解説

今年もよろしく。

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2019年の年賀状と解説

「幸運な病のレシピ」「幸運な病のスタディ」という動画シリーズをyoutubeとブログで続けています。

「幸運な病のレシピ」は、友人と話していて、「自分も料理好きだ」という一言から始まった。僕が糖尿病で毎日料理を作っていると話したらそう言うのであった。しかし話を聞くと、炭水化物が中心の「商品化された=コストの安い」食事を作っているのである。そして、白衣の妄言(50年前の医学常識)に詳しいのである。
僕の取り組みをなんとか伝えたいと思い始めた。最初は血糖値の上がらない食事のメニューを動画に撮ろうと思って始めたのだが、いつの間にか「毎日の食事作りの価値」を考え始めていた。

スタディは妻に言われた。「あなたは話が上手だから、動画で話したらどう」とアドバイスされたのである。確かに僕は営業職(セールスエンジニア)で、話す(自分を売る)のが商売だ。撮影は妻が担当で、「あらゆる分野」に広がる僕の興味が反映されている。2018年内に50本アップしようと思ったが、できなかった。人生は思うようにならない(笑)。

youtubeは2010年当時、webの仕事でお客様の会社の宣伝を動画でしようということで始めた。実にすごいなあと思いながら今まで色々な動画を撮ってきた。
ブログはハテナダイアリーさんで始めた。webの仕事でお客様の最近の動向を書き込むようにお勧めするのにまずは自分で試してみるところから始めた。

僕も似たような仕事しているのだが、やっぱ、トップの会社は違う。いつも感心してしまう。負けないぞ!

870回を超え、毎日素材から食事を作ることがいかに難しいかをドキュメントしています。

毎日料理を作るのは実にコストがかかる。何を作って良いのかわからない。テレビの情報番組では何年も昔から同じような妄言を白衣を着たお偉い先生様が話す。
巷のレシピ本やwebサイトはみんな「簡単、手軽、便利、健康、最新の医学研究」のオンパレードだ。どの料理も綺麗で、生活感がない(笑)。
しかし、私たちの生活習慣病への恐怖はとどまることを知らない。
食事は大事と口を揃えて言うが、「なぜ大事で、どんな食事が良いのか」はわからないままである。
サプリメントを買えとか、治療を受けろのオンパレードである。

確かに効果のあるものもあるだろう。しかし、私たちの恐怖は消えはしない。

先端(笑)医学のどこかに問題があるとは感じれないのだろうか。
そして食事作りが簡単なら誰でもやっている。

できない理由を見つけたいと思っている。

僕はプロみたいな(売って利益を出す)料理を作りたいのではなく、「母」のような料理を作りたいのだ。

正しく現状を分析して対策を見つける。僕はシステムエンジニアだ。

この旅は「糖尿病と向き合うこと」から始まりました。

僕は33歳の時に糖尿病を宣告された。医師の言う通りに治療を続ければ治ると思っていた。
2015年、そうでないことを知った。
そして、自分の健康は他人任せにしてはならないとわかった。

そこから僕の勉強は始まった。
とにかく「白衣を着た先生様」より詳しくなろうと考えた。最初は「生化学」の本を読んだ。医学部の学生の教科書である。全くわからなかったが、徐々にわかるようになてきた時は嬉しかった。同時に分野を限定しないで学び続けた。そうして今ぼんやりと原因というべきものを特定できつつある。

「高血圧、高尿酸、高血糖、各種検査値の異常」は進行する災厄(生活習慣病)のマーカーでしかないと知りました。

「白衣を着た先生様」に一番考えてもらいたい。
年取った時に、自分も向き合わなければならない現実なのだということを今気がつかなければ仕方がないのだ。
なぜか医師には「肥満したヒト」がいない。自分が肥満していなければ「生活習慣病」にはならないと思い込んでいるのは笑止である。

薬でマーカーを下げても癌は治らないように災厄は進行していくのです。

薬理学を学んでよくわかったことは、今の薬は大変よく効くのである。検査値をごまかすことは簡単なことだ。
「身体というコロニー」の中で展開されている代謝の相互作用で、検査値の一つの値が出てくる。
どれか一つの代謝を止めてしまえばその値は「正常値」になるだろう。糖尿病の処方薬の数を見てみればわかる。
1922年にインスリンが1型糖尿病患者に劇的な効果をもたらした。医学史を見てみても、わかりやすい欠乏症が「薬一服」でみるみる快方に向かった。
その「勝利の記憶」が患者にも医師にも忘れられないのである。

検査値の異常は「原因」ではない。
やがて来る災厄と相関関係はあるが、因果関係はない。

生活習慣病:ガン、認知症、腎不全、動脈系疾患」

生活習慣病の定義をはっきりさせておきたい。治療の「開始はあるが終わりのない病気」を僕は生活習慣病と定義する。
最初は前触れとして検査値が異常になってくる。よく効く薬があるので医師は処方する。
確かに、検査値自身が問題である場合もあるだろう。
しかし、現実にその対策では何年か後に来る災厄を止めることはできない。現実が変わらないのは対策が間違えている書庫である。

やがて来た災厄の治療は「破壊的治療」でしかない。元に戻すのではなく、住宅密集地で延焼を防ぐためにまだ燃えていない家を破壊するようなものである。
そして繰り返された「消化活動は」焼け跡しか残さない。

ガンについては、」発がん物質」探しや「発がんウイルス」の特定が結局はあまりに多くを見つけて破綻した。相関関係のあるものはいくつでも見つかるがそれはあくまで「因果関係」ではないのだ。認知症に関しても同じである。

の根本的な原因は「商品化された食事(誰もが好み必ず売れる炭水化物が中心になった食事)」にこそあります。

糖質制限」が流行している。あれだけ反対していた「糖尿病病学会」も「医師の指導に基づいて行えば良い」と言いだしている。
僕も2013年当時、糖尿病がずいぶんひどくなって、試してみたら「口乾き・肩の痛み・歯茎の出血」が収まり、驚いた。
しかし続かないのである。

「炭水化物悪玉説」はわかりやすい。そして今までの医学常識とも(ある程度)合致する。

しかし。続かない。当たり前である。炭水化物はあらゆる生命にとって最高のご馳走なのだ。

問題は、この私たちの弱点を「ビジネス」にしてしまった社会構造の中にこそある。

そして素材から「生命に満ちた食事」を作れないのは「家族というシェルター」を失った社会の問題なのです。

毎日が苦しい。人生がこんなに苦しいものだとは思いもよらなかった。

2015年失明を宣告された、そして2016年、母が亡くなり信頼していた「くそ連中」と向き合うことになった。
そしていかに「家族(母)というシェルター」が僕を守っていてくれたのか知った。
ヒトは関係性の中に生きる。

僕の父は3年前に妻を失った。訪ねてくる友人もなく、一人取り残された。
僕は父の食事を作る。父を介護しているのではない。
僕を守ってくれていた母が、「もっと生きろ」と父を残していってくれたのだ。

命など惜しくもない。てめえら、文句があるなら俺を殺しに来い。

家族というくびきからの解放には副作用もあったのです。後戻りできない世界の中で人生の終わりの災厄を防ぐことはできるでしょうか?次の本の主題です。

母も父も実家のために自分の人生を犠牲(家族の事情のためにやりたいことができなかった)にした。
それは「くびき」と呼んでも良いものだったのかもしれない。

母の人生を思う。どんなに忙しくとも、食事は自分で作るほかなかった時代から、「商品化された食事の時代」まで生きた。

僕は小さい頃、母の厨房に立つ姿を見て育った。
もう子供たちはそんな体験はできない。しかし、毎日苦労して食事を作る姿を記録すれば何か伝えられるかもしれない。

「食」には価値がある。そして、自分や家族にあった食事を作ることは素晴らしいことなのだと伝えたい。

定年後、そして最後の10年を健康に「ピンピンコロリ」と過ごす為に何かを見つけたい。

まだ見ぬ仲間を探しているのです。
同じ価値を信んじることができれば良いなと思います。

やっぱ僕は宗教家だ。
そう言われても構わない。

僕は自分に見えるもの、信じることのできるものを人に伝える。




僕のようなII型糖尿病患者にとって「血糖値が上がらない」ということは、「炭水化物という嗜好品」が食事の中に占めている割合が少ないということだ。商品化された食事は「誰もが抗えない魅力を持つ炭水化物と言う嗜好品」を中心に据える。コスト低く満腹になるから、まさに最高である。しかし、そんな食事が「『ガンや、認知症、心疾患に循環器、壊疽に肺炎、透析に眼底網膜症、骨阻喪症にリュウマチ痛風膠原病に難病指定、薬で下がる検査値の異常(糖尿痛風高血圧に高脂血症)』を呼んでいる。
masaya50.hatenadiary.jp


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