毎日、食事を素材からを作るということ。嗜好品を遠ざけるということ。ともに家族と食べるということ。
僕はII型糖尿病というあまり名誉ではない病気と30年付き合っている。
数年前から食事と向き合っていて、「商品化された食事」というキーワードを見つけた。
「食事を作る」とはどういうことなのだろうか。
食べ物に対して僕らはいつも不満がある。
どんなものを食べても、もっと美味しいものがあると感じる。
これって何なんだろうか?
また、どうしてもあるものが食べたいと感じることがある。
なぜなのだろうか?
食事の場で、人との関係をコントロールすることがある。
これは非常に大きな意味がある。
食べ物は「身体」というコロニーを形作るための一番の要素である。
今日歯医者さんの待合室でサプリメント(青汁)の通販番組を見ていて感じた。
食事にはこういう物が入っていなければならないー>しかし入っていない。
だからこの青汁を飲みなさいというロジックである。
いつの頃からこういう考え方が強調されてきたのだろうか?
よく昔の人は元気だったと聞く。
果たしてそれは本当だったのだろうか。昔の人はみんな死んでしまっている。
多く生まれ多く死んでいた時代である。
考えさせられる。
食事というのは、どういうものなのだろうか。
ただ満腹になるための一つのプロセスなのだろうか。
みんなが毎日することなのだが、全く異なっていて、それでいて同じだと感じていて、比較が不可能であって、調査も意味がない。
医学論文や本を読んでいると感じるが、「食事調査」「エビデンス」「アウトカム」みんな嘘っぱちだ。
食事とは「個人的」で、他人にと比較しても意味がなく、すべての人に共通の「正しいもの」はない。
誰もが従うべき「正しいセックス」が無いように、誰もが幸福になる「正しい食事」もない。
大阪にいる時に、美味しいものを食べたいと言ったら、ある人に「ヒトの口はみんな違うから、どこの何がうまいとは言えないが、........」と言われた。
端的で、忘れられない言葉である。
食事をセクッスに置き換えてもそのまま通じる。
何を食べているか、何が好きかということは実にプライベートなことである。
そして異常も正常も無いはずなのだが、僕らは敏感である。
なぜだろうか?
正しさはその人にとっての意味しかないから、自分で見つける他ないのだ。
どうすれば伝えられるのだろうか。
次の本の主題である。
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