循環し再生される家族 ( 1 )  「家庭」は宗教の最小単位で、「宗教団体」は拡大された家庭を目指す。カルト教団と家庭の深い関係。

『子育ての大誤解—子どもの性格を決定するものは何か』に関してはこちらこちら



「循環し再生される家族 」というのは、すでに失われた人間関係の事を指す。
しかし、悲しむことはない。私達は「ヒト」と言うプロトコル(構造)を持って生きている。環境の変化に際しての反応はそう簡単には変わらない。
これからどう変わるかを見つめ予想することこそが「災厄」を最小限にすることになる。




学校はパートタイムのカルト教団である。
その教義は学校によって異なるが、共通の目的を持ち、その目的の達成のために全生徒に様々な強制を強いる。


そして納期(卒業)が来た時点で解き放ち、責任を取ることはない。お役所だからな。
家族はそうは行かない。否が応でも向き合っていかねばならない。無論「家族」にも卒後は来る。自分で稼ぎだしたらまずは卒業である。その後で、蓄積された「財」の争奪戦が起こる。兄弟や国家、年老いた父母の遺言と言った様々なハードルが待ち構えている。


家庭は宗教の最小の単位である。教義を持ち、行動を規範して、成果を喜びつぃて共に分かち合う。
子育ての最中は、学校の下部組織として機能していく。

学校でも、家庭でも成果を上げられない者(偏差値の低い者)は、信心のなさをなじられ、そのコミュニティでの分配を削られる。


大学に入った瞬間に、重荷を外された子供は「自分を探しに出かけて、カルト教団の忠実な申し子になる」。



「教団2世」と言われる人達がいる。
親がカルト教団の信者である場合である。
厳しい戒律の中で生きることに苦しむ。
しかし、考えてみてもらいたい、親が信念を持っていたら、教団の信者でなくても同じことが起こる。
例えば、僕は強い信念がある(笑)。
まさに「マサヤ教」である。


来年、子供が遠くに行くことが決まって、考えることが多い。






日本人は無宗教だと言われるが、何も見ていないものが言うことである。
注意深く見れば、あらゆる人の作為の中には宗教を見つけることが出来る。
おそらく、「コミュニティ」における「他者のコントーロール」という考えかたで分類できる行動のルールであろう。

上位概念は「民族性」とか「国民性」という







教育は何を目指しているのだろうか?
成功した子育てとは何であろうか?


自分の思う通りに子供の人生を生きさせるのが成功なのだろうか?


一流大学に入って、公務員試験に受かって良い給料もらって、天下りを繰り返して億ションに住んで、子供に好き放題させて、高額な介護施設に入って、認知症だということでボケボケになる薬もらいながら年金ATMとして長生きするのがいい人生なのだろうか?






人生は辛い。
多くの望みは叶うことはなく、上を見れば切がなく、誰かがいつも得をして、やがて年老いていく。


今でも僕は毎日つらい。
売上が少なく、負け組となじられ、頑張っても成果に結びつくかどうかわからない(笑)。
子供はどこかに行くだろうし、いずれ一人で死なねばならない。
















グローバリズムは「家業」というものを完全に破壊した。
つまり、父親が社長で息子は社員であるような「人生のモデル」が失われた時代である。



カルト教団が大きな社会問題となった源流は、「家庭」という教団が崩壊して言った時代に重なるような気がする。
オウムの時代も1980年台以降だからグローバリズムが家庭を破壊した時代とも重なる。

積木くずし 1983」「時間ですよ 1970〜1980」「寺内勘太郎一家 1974」「ずっとあなたが好きだった(冬彦さん)1992」
テレビドラマとの関係なども考えたいのだが、余りテレビ見ていなかったのでよく分からない。
しかし、何かあるだるなあ。




大規模小売店舗法」が制定(1973)され、廃止(2000)された経緯を実感できるかどうかは単に法制史をなぞるのではなく、その次代に生きた生活者にしか出来ない。

自動車で消費者がモールに行けるようになることで多くの小売店は消えた。
地産地消」と言う言葉が出てくるのは1980年代である。

「肉屋、八百屋、豆腐屋、手芸店」「洋品店着物屋さん、仏壇屋さん」が消えて「ショッピングモール」ばかりになり、やがてそれも消えていく。





変化は大きく、早いために、「今当たり前のものしか見えない私達」には見えない。
そしてその変化は否応なく今の私達をも巻き込みながら進んでいる。



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