なぜ、子供を虐待しないのだろうか。

子供の死は辛い。
自殺にしても、虐待の結果の子においても、辛い。


しかし、昔から、疑問に思っていたことがある。
なぜ、子供は大切に扱われるのだろうか?
子供を育てることのメリットは何なんだろうか?

『ダブル・インカム・ノー・キッズ(共働きの子供なし)』と言う言葉を初めて聞いたときは、夫婦で別に働いて、裕福で自分たちの生活を楽しむ人を指していた。

しかし、今は違う、一人の収入では暮らしていけないくらい賃金は低くなり、インフラや役人は増え、税金や基礎コストが高くなっている。そのために貧困と共に「共働き現象」は起こっている。バックボーンにはグローバリズムがあり、社会自身が一般人の貧困から特定の層に富を集中させる仕組みになっている。



僕の一応の答えは、「未来での報復を恐れるから」である。
自分が齢をとった時に、世話してくれる「大人となったかつての子供」にいびられたくないからである。

つまり、子供が「元気で生産を担う自分の位置」に入り、今の元気な自分は「年老いた引退したメンバーの位置」に入り、家族は循環するモデルが前提にあった。

子育て、家族生活というのは「家族」という「職場」を維持するための「スパンの長いトレーニング」だったのである。

前提としては、家業があり、そこからの収益で家族の生活が運営されると言うモデルが必要になる。





しかし、「循環する家族」と言う構造が失わられ、年取ったら介護施設に入り死を待つ人生である。
もう子供は報復することはない。職員に虐待されるのである。
そして職員に嫌がらせして、互いに苦しむ人生の終わりであろう。

自分の未来をそう考えると愉快ではない。

少子化」と言う現象も、まさに同じである。
子供が老後の生活の担保でなくなった現在の社会では、ただの金食い虫である。



社会の変化が、こんなところにも影響を与えるといういい例である。




確かに、子供と暮らす人生は面白い。
そこにしかない喜びも多い。
しかし、苦痛も多い、反抗期や素立ち、独立に結婚、いずれも形付けられたロードマップでありながら、大きな変化を強いるものである。
その変化は自分の一部を失うように辛い。
そしてその喪失を治癒する「家族という構造」はすでに失われて久しい。



1100306