「幸運な病の食養訓」 (1) 「生活習慣病への恐怖」こそが「現代の食養ビジネス」を生んでいる

世の中には「食養訓」がおおい。

出版されている「レシピ本の食養」(=民間療法)と言われる一群の考え方。
学者が唱える「最新医学の食養」と言われる一群の考え方。
両者のミックス型も多い。

テレビや雑誌、ネットには健康情報が満ち溢れ、その市場規模は想像もつかない。



それぞれに自分の説が正しいと、戦う(笑)。

「レシピ本の食養」は『自分がいかに健康になったか』という体験を根拠とする。
そしてこういう食事をしなさいと言う結論を出している。
そして「食品業界・健康食品・サプリメント・スポーツジム」などの広告となる。


「最新医学の食養」は、『試験管の中での現象や学問的な根拠となる条件』を根拠にする。
「個人の体験や、正しいかどうかわからない情報」に踊らされてはならないという。。
そして、「食品業界・医薬品メーカー・自分のクリニック」の広告となる。




しかし、考えても見てもらいたい、これだけ多くの情報が「最新医学の食養」を語りながら、私達の『生活習慣病への恐怖』は亡くならない。
逆に言うならば、「生活習慣病への恐怖」こそが「現代の食養ビジネス」を生んでいる。



「最新医学の食養」も「レシピ本の食養」両者ともに、健康の問題を「個人の食事の問題」と考えている。
つまり、「悪い食べ物を食べている」か「良い食べ物を食べていない」のどちらかなのである。
これは見事に「医学の勝利の歴史」と重なっている。

と同時に、「ヒト」という生物全体に共通する「良い『食事=薬』」が存在するという確信を持っているのだ。



「現象」に問題があるということは「対策」が間違えている

しかし、これらの「食養」が決して触れない事がある。
『私たちが自分で料理を作らなくなったという変化』である。

そんなに、「食事を作らなくなった事」に大きな意味が在るのだろうか?
逆に論じれば、「食事の価値」とはなんだろうかということである。


今の生活を尺度にかつての生活を考えてはいけない。

「庶民の生活史」を考える時に、今の生活を基本に考えることは厳禁である。

炊飯器がない時代に米を炊くのは大変だったはずである。
お湯の出ない時代に皿洗いは重労働である。
汲み取り便所の時代の衛生観念と今のそれを比較するのは問題である。
スーパーやコンビニ、弁当屋さんなどない時代を想像するのは困難である。
こんなに安く簡単にアルコールはは手に入らなかった。



父母の時代は、様々なタンパク源を食事に取り入れていた。
そして「家族」がシェルターとして私達を守っていたのである。





「幸運な病のレシピ」というのは、「僕にとっての正しい食事」である。
僕の糖尿病に対しての食事療法を続ける過程で見つけたもので、誰にでも効くレシピではない。

このレシピでは「身体に良い・悪い」という観点からは考えない。
「嗜好品(炭水化物・アルコール・セーフティでないセックス)」は程々にする。
なぜならば、「嗜好品」はあまりに身体に気持ちがいいから、必要なものを取ることができなくなるのである。

つまり、

1)嗜好品をとっているためにおこる長期的な「必須アミノ酸と必須脂肪酸」の欠乏現象が「生活習慣病」メインプレイヤーである。

2)ヒト一人一人は違いすぎるので誰にでも効く処方箋はない。


70兆言も言われる「私細胞」とそれの何百倍ものマイクロバイオームはヒトを操って食事を摂る。
「私細胞とマイクロバイオーム」はぞれぞれに必要な栄養素を求め、意識は食事をして、血液を一定の状態に維持する。
身体を構成する「細胞」一つ一つも「分化=適応=進化」の家庭で大きく異なってしまっているので、全ての細胞に効く処方箋もない。


しかし、どの細胞にも効く「食事=血液」はない。


考えても貰いたい、下水道と水道が一緒なのだ。そして血液を経由して様々なメッセージが交換される。

やがて、プロトコルが変わり、求めるものが手に入らなくなった細胞は自死する。
「細胞ー組織ー臓器ー身体全体」は死を迎える。

個々の生命(私細胞とマイクロバイオーム)はそのコロニーに適応しきれなくなり徐々に退場する。
多細胞生命の「死」は「私細胞」にとっては小さな死であり「マイクロバイオーム」にとってはのはたんなる引っ越しにしか過ぎない。



個々の細胞は環境を変えながら自分自身も変わる。
しかし、変わる力には限界がある、それが老いであり、死なのだ。



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