エビデンスという嘘、ナラティブという欺瞞

なにか議論する時、私達は「共通の事実」を探すところから始める。

それはそうである。数学の方程式を解く時に、「九九の正当性」の議論から始める訳にはいかない。
私達は先人の肩の上に乗って高みを目指す。


エビデンスと言う言葉は心地よい。
学術的な論文では統計的な調査をエビデンスと称する。
しかし、統計的な調査は、あくまで「あるもの」しか見えない。
『僕の隣にはピンクの象がいない』という絵を書くことが難しいように、エビデンスは安全性を担保しない。




誰かが、何らかの形で調査した時にその調査が正当なのか、ここで引用するべきなのかは議論している隙がない。
僕は前作(幸運な病)を書くためにおそらく500以上の本とwebからの情報、数々の経験から感じ取ったもの、を参考としている。これらの論考の断片を全て議論することは不可能である。

ディベートでは、『何を根拠(エビデンス)に』ではなく、『どんな結論が出ているのか』ということが重要だと思う。
根拠が重要だと思われがちであるが、形式的に条件を満たしていても、『それが何なのテスト』に合格しなければ意味がない。
ある調査で、「無作為抽出」された4000人に10年前と今とで体重が増えているかどうかのアンケートをして、「増えていない」が大多数だった戸言うエビデンスから生活習慣病は増えていないと断じていた。
この「調査」というエビデンスと、この結果はいかに専門家が馬鹿かよく表している。


人が論を立てるときには「仮説」がある。

最初にあるのは結論なのである。そしてその結論がいかに世界を読み解くかが重要なのである。

今ある悲劇を解決して、将来の災厄を防げなければ知識などは役に立たない。

研究の専門家は「研究」自身で給料をもらう。内容ではなく研究をしたという報告が給料の元なのである。だから駄目なのだ。

患者は自分の人生をなんとかしたいと思い自分なりの論考を課せね実践する。自分の体に関しては自分自身が専門家なのだ。統計の数字では解決しない。








学術論文は、エビデンスのオンパレードである。
確かに、議論のベースを明記することが需要である。しかし、もっと重要なのは「目の前の悲劇」だ。

そしてその悲劇に自分はどう立ち向かっているかということこそが重要だ。


その結論が、この「悲劇」をいかに回復させるかが問題なのである。そして、結論(リザルト)から、根拠(プロセス)の正当性を類推するのである。
そして、立ち戻り、批判的にプロセスを見直して、自分の誤りを見つける。

ディベートとは、自分が変わっていくためのプロセスである。

僕はソフト開発とお客様へのコンサルテーションを通じて他者と対峙する時に何が重要か学んだ。









ナラティブというのは患者の悲劇を理解するために必要なプロセスだと言われる。
先日読んだ医者の書いた『最低の「ナラティブの教科書」』では、患者を言いくるめるために話をさせろと言っていた。

つまり、患者に病状や生活や経験を話させて、自分にいかに知識がないかを思い知らせて、医師の言うとおりの生活をさせようというのである。
学校で先生の言うとおりにしていればいい成績になって、いい学校に入って、素晴らしい人生を送れると思いこんでいる人にはいいよね。
僕のようなへそ曲がりはそうは思えない。

当たり前であるが、治療はやり直せない。一旦「薬なり手術なり」をしてしまってから「やっぱヤラなかったらよかたかなあ」などと考えても無駄なのである。
どうしたらいいかわからない時に、専門家の意見を聞くのは当たり前だ。

そして、問題は自分自身の中にある。












共感して、「共に痛みを分かち合い生きる」ことが出来ない医者がなんと多いことか。

海外の研究者の書いたナラティブの解説書は、病気の経験者が多い。
また、「医者が癌になった本(医者の闘病記)」もある意味ナラティブなものであろう。
そういう意味では「幸運な病」はナラティブの典型例である(笑)。



デブの気持ちがわからない医者の食事指導」って最悪である。
単に食事の項目のマルバツを付けるだけではないか。
採点して落第させる。
テレビの健康番組は、このパターンである。そこにはヒトとしての優しさがない。他人事である。偉そうな医者の顔見るとハラワタが煮えくり返る。




なんと傲慢なことか。






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