「今日の食事が死に方を決める 明日の食事が生き方を決める。」(1) 55歳からの食事探し 僕の厨房修行 健康の自己責任

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現在、『生活習慣病の恐怖』に囚われないヒトはいない。

なぜ、こんなに恐ろしいのだろうか?

幾度も繰り返される健康診断で、「検査値が正常」であっても、60歳を過ぎた頃から、私達は本格的に病(症状)を発病する。


そして、「生活習慣が悪いためだ」、「医者は悪くなく、言いつけを守れない自分が悪いのだ」と納得する。これを健康の自己責任」と呼ぶ。

確かにその通りではあるのだが、家庭というシェルタを破壊され『自由主義市場』から完成した食事を買うほかなくなった状態で生きる私達をそう呼んでは可愛そう。

泳げない子供を海に突き落として「溺れるのは自己責任だ」というのはフェアじゃない。
泳ぎ方を覚えなかった子供が悪いのだろうか?

選択肢があり、選択の結果が分かっている上で選択した場合に「自己責任」と言う言葉は意味を持つ。



医療は「検査値正常」が「健康」だと定義する。
しかし、年老いた時に「災厄」を生み出す「検査値の正常」などに何の意味があるのだろうか?


検査値は単なる生活(食事)に対しての身体の当たり前の反応でしか無い。
生活(食事)を変えないで、(薬で)検査値を矯正した所で、忍び来る災厄から逃れられることはない。




医学は、「最新の研究」と言いながら、今までの誤りを反省することもなく、現象(検査値異常)のもぐらたたきを続ける。
僕の仕事(システムエンジニア)では、誤りが見つかったら同じことを繰り返さないために分析を行い、何が悪かったのかを実証し対応策を立てる。しかし、医学はどこが悪かったのかということを明らかにしない。誤りの原因が自分たちに有ることを認められない。これを官僚主義という。






僕は糖尿病で幸運だった。生活を変える以外に道はないと決心できたからだ。
そして、この病気が僕の羅針盤となってくれた。

物は考えようである(笑)。

確かに僕は無知で愚かな人間だ。
20代の終わりには毎日牛丼とカレーと立ち食い蕎麦で体重は120kgを越えていた
食事指導をした看護婦の蔑むような視線は忘れない
しかし、25年間の糖尿病治療が何も解決してくれなかったことを理解して、もう医学には頼らないと決心する程度の「知恵」はある。
『医師の処方』に従うべきか何度も悩む。そして、自分で「学ぶ」ことでしかこの悩みは解決しないと決心した。

自分の生き方を学び見つけることは「アウトソーシング」出来ない。
そして死に方も自分で見つける他ないのだ。

今日を生きてやがて死ぬその「毎日の食事」は自分自身にとっての「正しい食事」を探す旅なのだから。






「血糖値」というのは検査値の中でも測定方法が確立され、食事の影響が即時に反映される珍しい特徴がある(これ以外にはブドウ糖中性脂肪代謝された場合の「中性脂肪(TG)」がある)。なので、生活(食事)が自分にとって正しいものかどうかは食事ごとに判断できる。多くの検査値は、様々な代謝の経緯の中で現れるものなので、直接的な因果関係を見つけるには適していない。





33歳の糖尿病を宣告され、現在58歳である。
僕の糖尿病生活は「食事」を考え続けた25年だった。

食事ってなんだろうか?
「食べる」という行為は同じに見えるが、「食事」という観点から見ると「ヒト」と他の生物は決定的に違う。


食物連鎖」と言う言葉がある。
時折、栄養学の教科書などでも触れられるが、『ヒトは生物界の王様だ』と言う意味だと考えている人達がいる。
これは明らかな間違えであり、無知の証明であり、思い上がりも甚だしい。




ヒトが死ねば、ブドウ球菌を始めとする小さな生命が、身体を分解して、新たな生命の材料として地に放つ。
決して、「神様が自分に似せてヒトを作り、他の生命を食べることを許してくれた」訳ではない。
また、「原罪」などという都合のいいものもない。
決して「弱肉強食」などという都合のいいものもない。





食物連鎖というのは、

太陽エネルギーを植物が利用して
炭素を軸とした高分子化合物を作り
その高分子化合物を「代謝(常温での分解と再構成)」するプロセスである

高分子化合物とは、炭素を中心とした数種類の元素から出来ている化合物である。水素、酸素、窒素、リンなどの僅かな種類の元素の組み合わせで出来上ている。
タンパク質は単純なパターンの無数の組み合わせから特異性を持った分子となる、タンパク質は細胞生命の間での『言葉』であり「排泄物」であり、「栄養素」であり身体を構成する「材料」である。
脂質は水に分離する性格から膜を作ることが第一の役割である。同時に安全に
糖質は水素を大量に保持して安全に輸送するための大事な仕組みである。

そして最も重要なことはこの3者が互いに「代謝」を通じ姿を変えるということである。







そして、「食物連鎖」とは「その生き物が何を食べることが出来るか?」という事が決まっているという事を意味している。

残念ながら、私達には見えるものしか見えない。






もう少し別な角度から言うと身体を構成する細胞生命(マイクロバイオームと私細胞)に必要な物質を提供する装置(プロセス)なのである。

食べたものを消化して
皮膚の内側(生命を育む海・細胞生命が浮かび物質交換を行う)に循環させて、
細胞が周辺の環境から取り込み、
細胞生命は自己を再生産する。
そして細胞生命は、「身体」のことなど知らない。ただ、その環境の中で単純な化学反応を繰り返すだけである。

生物とは、マイクロバイオームが「代謝(常温で起こる化学変化)」を維持するための「環境」なのである。



ほぼすべての生き物は、特定の生き物しか捕食できない。
恐竜が滅びたのは、弱かったからではない。
環境の僅かな変化によって、恐竜が捕食していた生物がいなくなったからである。
ラニアという恐ろしい魚は、わずか数度の温度変化で生きることが出来ないという。

非常に生息域が狭いと言われる。パンダは笹しか食べれない、コアラはユーカリ、渡り鳥が生命のリスクをかけて長い距離を飛ぶのも、食べものを追って大移動を行う偶蹄類も同様である。

ところが、ヒトは何でも食べる。そのために、広い環境で生きることが可能になった。
つまり、『料理』がヒトを作り上げたのである。




しかし、問題が有る。私達を作っている『料理=食事』についての定義が難しいのである。
そして、「料理=食事」は食べる人自身の内的(その個人独自の要求)な行為である。






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