僕のマイクロバイオーム論(5)進化と適応、「擬人化」のミスリード

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進化と言う言葉は問題が多い。

「なぜ世界にはこのように多くの生命が存在するのか」と言う問いかけに対して、「神」の存在を借りないで説明するために科学が生んだと言われる。
しかし、どうしても「科学という神学」は「擬人化」の要素を付け加えてしまう(注)。


進化という言葉には「不可逆な変化」であり、以前の姿より「より良い」ものに変わっていくようなニアンスが入り込んでいる。


ドーキンスが戦ってきた「世間」はいつもその様に考えるのである。


「適応」と言う言葉の方がこの現象には似つかわししい。
適応というのは、可逆的であり、常に今を終点とする。
そして、環境の変化が口火となって、次の終点に向かう。


細胞は、常に変わる。
卵子精子に起因した1つのDNAゲノムを持った細胞が分裂を繰り返して「目に見える生命」になる。
この『「目に見える生命」がすべての基準になっている』が、それこそが擬人化の最たるものなのだ。

見えないから無いわけではない。
「本当に大事なものは目には見えない」のだ。
昔、砂漠に消えた小さな子どもに聞いたことがある。




私たちは今でも進化しているのか?

私たちは今でも進化しているのか?

「擬人化」は見えたものを、『僕らはそうであって欲しい』ものとミスリードする。

あたかもその減少を動かしている「もの(黒幕)」には意思があり、私の味方であるかのごとく思うのである。
間違えてはいないが、余りよろしい事ではない。


★★★★★ この項目続く ★★★★★★


多くの医学的な現象は自分自身の未来にも関わってくる。
病に苦しむヒトを見た時、「自分はそうはならない」と根拠なく考えたがるのが私達である。






患者と医師は同じ環境に生きる場合が多いから、医師は、「患者は自分とは違う」と思いたがる。



============注============

どうしても「科学という神学」は「擬人化」の要素を付け加えてしまう。

科学という神学では、大いなる目的の元に進歩しているという前提がある。
それに異を唱える考え方が「構造主義」である。
「太陽のもとに新しいものなどない」と言う警句が僕は好きだ。
そして、彼ら(白衣を着た神学者たち)は今日もテレビで「最新の知見」による健康法を垂れ流している。

しかし、悪いのは彼らではない、その言葉を求める信者の方である。


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