幸運な病のレシピ( 111 ) 揚げ物、モツ煮、父と夕食

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揚げ物というと、不健康な食べ物というイメージが強い。
しかし、何日かの食事に分散できる上に、卵でとじたりすることでバリエーションがある。
子供は御飯のおかずにして食べればいいし、僕や妻はこれでお腹いっぱいにするし、父は少しだけたべる。
自分にあった量を探すことが肝心である。





僕も出来合いの揚げ物を食べると思った以上に血糖値が上がることが多い。
しかし、自分で作るとそんなには上がらない。満足度と血糖値のトレードオフとして考えると悪くない。
要するに、一回の食卓の中でどう食べて満足するかをクレバーに考えることである。



揚げ物は蒸し料理である。
食材を衣というカプセルに入れて高熱をかけるのである。
天ぷらは、衣が熱の遮断が大きいので、生に近いものとして食材を扱う。

ピザ(ナポリ風の薄いやつ)、餃子、天ぷら、いずれもそれだけで終われば、「脂質・炭水化物・タンパク質」のとり方が実に美しい。
世界には類似したレシピ(食材を炭水化物でつつみ油であげる)がある。



問題は、御飯のおかずというところである。
ご飯はある程度年をとると体内では脂質に代謝(変化)される。そして、ご飯(炭水化物)はインスリンの分泌を呼び出す。インスリンは細胞外の脂質量を減らす。そのために空腹が呼び起こされる(脂質は満腹を感じさせる)。そして、満腹と満足を混同してはいけない。
満腹だから食事をやめるわけではない。拒食症や過食症を見ればわかる。食事は心がコントロールしている。

食事を摂って血糖値が上がったときに運動をしていると(インスリンの分泌が無くとも)血液中の血糖値は下がる。
又は筋肉細胞が細胞内に溜め込むブドウ糖の量が多い場合なども同じである。
なので、主食というのは、若者やアスリートや体を使う仕事の人や兵隊さんにとっては大変いいものである。

しかし、僕のような糖尿病患者や父のような老人、ある程度の年取っている人にとっては血液内の中性脂肪やコルステロールを増やすメインプレーヤーである。

僕は「和食不健康派」である(笑)。


お米を否定しているわけではない。体内に取り込まれたときに、代謝されることを考えて食事を組み立てなければならないということである。
医師や栄養士の「健康的な食事」というやつは、一般論として論じなければならないために駄目なのだ。
そして公務員(医師や栄養士)は政治的な正しさを求められる。

「お米作り=農協=日本の心」を批判することになると思い、「炭水化物が体内で脂質に代謝されるということを触れてはいけない」ものとしている。
これが、政治的に正しい栄養学なのだ。
そして僕らを殺し続けている。


本当の問題は、海の向こうから運ばれているコーンであり、小麦粉なのだ。

糖質に抗えない私達の身体をターゲットにして毎日提供されている炭水化物が添加された食品である。そしてそれに頼らなければならない老人の孤独である。

そして、いいたい、少しくらい高くても地元の米をくおう(僕は食えませんが、炭水化物アレルギーなのです)。

問題の本質はグローバリズムにあると感じている。
出口は見つかるだろうか?
次の本の主題である。

99%のための経済学 教養編: 誰もが共生できる社会へ

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多めの水と醤油で圧力鍋にかけ、雪平で(水がなくなるまで)煮込む。
モツ以外は行平に移してから加える。最後にごまをちらしてみた。
今回はこんにゃくを忘れたのである。返すがえすも残念だ。






箸休めに、昨日の海鮮サラダにカイワレとレタスを入れてマヨネーズ加えた。





作っている途中で父が来たので、料理を出し始めた。
モツには出来上るのにに随分時間がかかった。

揚げ物は父も好きである。



色々と話をすると過去の記憶が蘇ってくる。
父の生まれた家のそばに鯉の養殖場があったとは知らなかった。

元気な父と生きれる僕は幸運である。






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続きの動画である。

僕と父は決して仲のいい親子ではなかった。
33歳で東京の生活を諦めて新潟に戻り、35歳くらいまでは職を探しながら新潟、大阪を回遊していた。

結局、父が50年務めることになる鉄の加工会社に勤めることになる。
その会社は3年後には倒産させられる。


想像してみるがいい。
自分の息子が、「苦労して大学出して、東京で何やってたかと思ったら300万円もサラ金に借りて、田舎に逃げ帰ってきたら」どうする?

父と母は、決して甘やかすこと無く、見放すこともなく、ともに生きてくれた。
東京の大学にやった息子が、帰ってきたと思ったら自分の鉄工所で、鉄切って手取り13万円なんだ。

押し入れに隠しておきたいくらいだったろうが、とにかく就職することが新発田で暮らす条件だった。
毎日職安に行くのが辛かった。

ときに僕は自問する、自分は、子供にそんなふうに接することができるだろうかと?







その3年は辛かった。
現場では親方は高卒の22歳で「学士様は頭が良いからなあ」とかいわれてね。

しかし、妻(一部上場会社の現場採用チーム)と出会い、最初の子供が生まれた。
今でも妻には聞く、どうして俺と結婚したのかと。
19年後に本を書くことになるなどとは思ってもいなかったが.............。

毎日東京にこのまま車で行こうと思いながら工場に行ってナッパ服着て鉄を切る加工をしていた。
絶望というのはああいうことなんだなと感じた。
それでも、社宅に入り、毎日上の言うことを聞いていれば定年まで生きていけるのだから、文句を言う筋合いではない。
東京ではサラ金に300万円くらい借金してどうにもならなくなっていたのだから、行き場所があっただけでもありがたがらなければならない。

その会社の倒産劇に労組の委員長として向き合って、様々なことを学んだ。

いま父と話をして共通の話題があるのはこの頃の経験が大きい。



父の望みは、今の家で暮らして、庭の鯉を眺め。餌をやり、先に逝った妻を思い出すことだ。

年相応の身体になっている。
ときにおしっこを漏らしたりすることもある。
段々記憶は短い間のものになっていっている。
しかし、それは当たり前のことだ。


僕は運がいい。
一日家を事務所にして仕事をしている(数年前だったら無理だった)。
国体の仕事に1週間出張してくれば、ほぼ年間売上の1/3はクリアする(無論3ヶ月位の断続的なな仕事はあるが.....)。
今も年末進行の仕事で忙しい。

毎朝晩の食事を作ることが出来る。
父の食事を研究しながら、自分の食事を作る。

学ぶべきことは食べていてくれる人の言葉だ。



母が亡くなったとき、父と僕はどうにもならない状態だった。
父は毎日、「人間はあんなに簡単に死ぬものなのか」と繰り返していた。
救急車で搬入されたり、おしっこを廊下に垂らしたり、ひどく大変だった時期があった。

僕は気が狂っていた
明らかに精神は不安定になり、人殺しさえする寸前だった。
まあ、今でも、時折悪夢は見るが..........父が生きている間は自粛せねば(笑)

自分がおかしいのは、現実と向き合おうとしているからだと気がついたのは「亡くなった母と妻と父と子どもたち」のおかげである。



いろいろな人が『そんなに父親の世話していたら、自分の時間が無くなるとか、仕事に専念できないから施設に入れろ』とかいう事も理解できる。
自分がそう思っているならば、そうすればいい。

それぞれに、親子の関係は違う。
どんな姿が正しいかなどということは言えない。
それぞれの正義があるのだ。

父が、父である間(僕や妻を家族と認識できる間)は、自分の始末をできる間は、僕は父を施設に入れずに共に生きる。
父が父でなくなったら、施設で生きてもらう他無い。
徘徊や、医療的なサポートや僕らが壊れるくらいの介護が必要になったら、そのときはお別れである。
それは自分自身にも当てはまることだ。

そして誰にでもくる。
母のように亡くなることの出来る人は幸せだ。



妻とよく話をする。
父は「年寄りはどう生きればいいかのお手本になるね」と。

しかし、僕と父母との関係は一筋縄ではいかなかった
母は、自分の体が駄目になっていくことが徐々に分かり、恐怖の中で生きていた。
父は自動車の運転ができなくなり、幾度も僕や母と言い争った。



常に人は変わる。
後1年で下の子は遠くに行く。
上の娘は、自分の人生を歩み始める。




関係性の中に人間は存在する。


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父が帰った後で2軒めの店に行った。
もつ煮が旨い、カルパス系のおつまみも食べた。




妻が帰ってきたので、朝の餃子の続きを作った。
うまかった。
今日は3件はしごした。
シメは焼き餃子であった。