何かと理由をつけては....

酒を飲む。

妻がいないのをいいことに、ビールを飲んで、ウイスキーを飲む。
今日は仕事が一段落したという、しかし、一段落しない日はない。

古今東西の酒好きは多くの美点を並べるが、酒を呑むのに「理由はいらない」という点では一致している。


人生は楽しい。
それでいいではないか。



父の夕食である。
6時近くになっても来なかったので、籠に入れて持っていった。冷蔵庫に入っていた食事の残りをツマミに家で飲み始めていた(注1)。
時折、うちに食事に来ないで飲んでいることがある。
一人で仏壇に向かい合ってTVをつけながら酒を飲んでいる。
ちょっと、台所に漬物取りに行って、席を外したみたいだ。
この部屋で一杯やっていると母が生きていた頃のように思える。

その気持は良く分かる。まだ、一人で生きるのに、なれていないのだ。
穏やかで悟りきった年寄り見えるが、それは表面だけである。

僕も、母の喪失が辛い。

日常の生活の一部となった場所にはなくなった人の姿が見える。
物は人の一部である。




父は、母が亡くなり葬式が終わった直後、大量の母の衣服を捨てた。
遺品の整理は少し落ち着いてからと思っていたのだが、母が生きていたときに苦しんでいた姿があの衣装箱に見えたのだ。

毎日毎日、母は僕に「着る服がない」というのである。
決してそんなことはなくて、一緒に探して見つけるが、また翌日しまってある場所がわからなくなっている。
やっと見つけてきた服も季節外れだったりしたものだ。

随分、薬の中毒が激しくなっていた頃だ。

もしかしたら、母は、もっと違う服を探していたのかもしれない。

若くて元気の溢れて、聡明で料理も作れ、体の痛みもない頃に戻ることの出来る服を探していたのだ。

僕らだって、若い頃の服が捨てられない。
物は思い出を記憶する。
同じものを見ても違って見えるのは何も不思議ではない。



やがて、妻が毎日着るものを用意するようになった。

母は一日を寝巻きで過ごす日も多くなり、服を探すこともまれになっていく。



森羅万象に人生の思い出は潜む。

そこに無いものを見ることは才能だし、宗教の根源だ。


母を失った家族には同じものが見える。

それが見えない人には「病気」だと思えるだろう。しかし、それは現実に向き合った時の当たり前の反応である。決して幻覚でも病気でもない。


朝5時に空き瓶をおきに実家に行った。
明かりがついていたので、台所片付けようと上がったら、父が酒のんどった。
「おお。一杯やってるね」と声かけたら「バレたか」という。

手紙の字がしっかりしているのに少し驚いた。

母は、まず字が書けなくなっていった。
恐ろしかったろうなあ。





今ご飯は70-80gなのだが、もっと少なくていいという。おかずは十分だという。
オカズから食べて満腹になるとご飯は必要ない。
多彩なタンパク質がしっかりした88歳を作っている。
このご飯は雀の朝ごはんになった。



お酒と緊急用の焼鳥の缶詰がある。
チョコなどのお菓子も少しづつ補充する。
楽しそうな父を見ると嬉しい。


「夜中に起きて飲んでいるんだよ」と僕に母は時折言いつけた。
仕事をしなくて良くなってから、父の趣味はお酒と散歩になった。




「50年も働いてやっと、何もしなくて良い身分になったのだから好きなようにさせてあげよう」と僕が言うと「そうだね」と言いながら、自分より父が早く亡くなることと、自分が死んだ後の父を心配していた。

母の笑顔を思い出す。


母の三回忌のときにお布施に名前を書いてもらった。





ここ数日の料理。










こういう日は、仕事机で飲む。
ネット見たり、動画見たり、時折プログラムも書く。
酔っぱらいコーディングである。決して素晴らしいソースにはならない。




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注1 : 冷蔵庫に入っていた食事の残りをツマミに家で飲み始めていた
毎日うちで食事をしながら一杯やっているのだが、小皿におかずを取り置いて「おみやげ」にして実家に帰っていく。
一眠りして、起きたらコップ一杯の酒のツマミにするのだ。
人に話すと、88歳なのだから酒なんか飲ませちゃ駄目だという人も多い。

僕は父と暮らし始めた頃に「強制しない・小言言わない」事を父と向かい合う時のポリシーにした。
最初の1年は苦難の連続だった。


どうして、こんなに頼んでも言うことを聞いてくれないのだろうかと悩んだ。

秋になれば焚き火をするし、雪が降れば屋根に登りたがる、雨が降った後は川にゴミをさらいに行く。
いくらやめるように言っても聞いてくれない。

しかし、徐々に分かってきた。


去年の秋に、家の前の大きな通りに面した空き地の草刈りをすると言って草刈り機を借りに行った。
ガソリンエンジンの草刈り機を子供も通る歩道の脇で振り回すというのである。
大喧嘩になった。
どうしてもエンジン付きの草刈り機で、草を刈るという(注1)。
しかし、仕方がないから、その空き地のヘリの草を刈ることにした。
小一時間かかったろうか。
そろそろ終わろうかという頃、父が歩道を歩いて散歩に出る所で、僕の横を通った。

さっきあんなに大声で怒鳴ったのに、忘れたかのように「ごくろうさん」と声をかける父。

何とも脱力である。

まだ昔は空き地や田んぼから多く、蚊や虫が近所の迷惑になった。それで草を刈っていた。
ポイ捨てが多く、裏の川のゴミ上げを毎日して市役所から表彰された(笑)。
雪が降って、温暖が交互すると溶けながらまた凍るから瓦がわれた。

父の人生の一部なのである。
それを理解しないで禁止するとは、何とも傲慢な話である。

父に届く言葉で話していなかったのだ。
それに気がつくのに長い時間がかかった。


そして、決して「老人」に対するだけの問題ではないのだ。
コミュニティのルールの問題である。

「他人を理解できない病」というよりも、「他人を理解しようとしない病」「自分に見えているものを強制しようとする病」とでも言うべきだろうか。
「自分が間違えていると考えることの出来ないヤカラ」が多すぎる。
自閉症の人に見えるものを理解しようとするこの映画には感動であった。

自分の人生には自分で向き合っていけばいい。

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注1 : どうしてもエンジン付きの草刈り機で、草を刈るという
あとで考えたのだが、わざわざうちに来て草を刈ると宣言したのである。
黙って、数年前までは草刈り機借りて刈っていたのにである(この2−3年はその空き地を借りている建築会社が刈っていたと思う)。
きっと、僕にやってもらいたいと思いながら、忙しい所やらせる訳にはいかないという葛藤のうちに思いついた戦略のような気がする。
現に、僕は、今年も朝方に3日ほどかけて草を刈った。
この空き地の草を刈るたびに父を思い出すのだろうなあ。


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