新発田物語 (1)  母の戦後教育史『死』が意味するもの

教育無償化の欺瞞 結局は公務員の給料に消える。


教育無償化という聞こえの良い政策論議がされている。
官僚・政治家は市民の望むもの(サービス)を提供する。
その財源は皆税金である。

サービスは最終的にヒトに払う給料となる。
大学の無償化と言うのは、結局は市民の生活が苦しくて、子供の進学という経路を通じての公務員に給料を払うことが出来なくなってきているからの政策である。

まずは社会が豊かになって、共働きで休む間もなく働くような社会ではなくなることを考えるべきだ。
この社会がもっと続いてほしいと市民が感じれるようになれば、大学に行きたいと思う子どもたちも増えるだろう。




しかし、大学を出た所で誰かの奴隷になるだけのことである。

そんな社会に生きたいと思うわけがない。
そんな社会を承認する選挙などに行きたいわけがない。



鯛は頭から腐る。

少子化が進み、当然、学校は潰れるだろう。
それを憂うるのは間違いである。

既に大学は、選別の長い道のりの入り口にしか過ぎない。
自分自身で学ぶことの重要さをいかに認識するかである。




僕は高木仁三郎さんが大好きである。
二番目に生まれた子に「仁」の字を頂いた。

百年しばたと言う市民活動を主宰している。
これは、たゆまなき「行政」への批判を主軸としている。
個人と社会の関係はどうあるべきかということを考えいる。



学び続けることというのは、自分に確固たる尺度を持つことである。
権威は自分が正しいという。
しかし、それに納得できない個人もいる。



権威に従うことを強制することで、誰かが利益を得ているのである。
自分の生き方に対する関節直接の強制である。それは、町内会かも知れないし、市場経済かもしれないが、従わないことは許されないのだ。
コミュニティ論では、「フリーライダー(=タダ乗り野郎)」と呼ぶ。
裏切り者の卑怯なやつである。

その構造を浮き彫りにすることで、公平に扱われていることをすべての市民が感じ取れる。

常に社会を批判的に捉えるということである。



「死」の意味について色々と考えている。
生命は生きるという行為の過程で環境を変える。
環境が変わることで、生まれたときに最適化されていた身体は上手く適応できなくなってしまう。
私達の身体はミクロの生命から見たら単なるマンションでしか無い。


では、死には意味があるのだろうか?
司馬遷の昔からテロリズムの意味はくり返し問われている。
社会は人の死によって変わるのだ。

死を持って伝える言葉には生き残った人を動かすだけの意味がある。
母の死は多くの事を教えてくれた。
いつもこういうことを考えると遺言を書いているような気になる。






いつも、学校とはなんだろうかということを考えると、母の事を思い出す。
戦後、戦争ですべてを失った人々は、教育に新しい社会が生まれることを切に願った。
父母の世代は、権威を憎みながら、その権威と一体化したいと思っていた。
他人を蹴落としてでも自分とその一族に利益を求めた。


今でも母の事を思い出す。そして、母の持っていたメンテリティ(気持ち)の中に普遍的なものが見える。
それを書いていきたい。




10年前の写真。
失ったと思ったデータ(250GB)がでてきたので、これを機会に妻と子どもたちに形見分けすることにした。
昔は、アルバムを子供に渡したものだが、今はデータをリムーバルディスクで渡す。まあ、クラウドサービスに入れておくのもいいが......


父母共に元気であった。世界と戦うために学び続けた母は学ぶ機会を孫達に与えることを望んでいた。
決して、権威に隷属するステップに乗れと言っていたのではなかった。





この家ができてから、僕らと父母は、もう一度家族になった。
母はいつも「隣でよかったねえ」という。それは僕のセリフだ。

既に母はなく、父は優しく見守ってくれるだけである。



教育は常に権威を補強する。あらゆる行政の作為は権威を補強するために動く。
行政の無誤謬性と並び私たちを不幸にするものである。

この2冊は色々なことを教えてくれた。
この世界に政治的な中立などていうものはない。

被抑圧者の教育学―新訳

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学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

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