「人生痩せたり太ったり(仮題)」のコンセプト(3) 消費の場、経済の単位となった家庭

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次の本では何をいいたのだろうか?
何度も問い直している。

「この50年間の世界の変化が生み出した災厄と向き合うこと」を書きたい。

既に「幸運な病」で粗筋は描いた
しかし、具体的なアクションプランが伴わなくては問題は解決しない。
僕の仕事はシステムエンジニアである。コンサルティングがそのベースに有る。
具体的に解決をして初めてお金をいただける。




次の本は具体的なアクションプランを書くことになる。
それが「レシピ・ダイエット本」の側面である。
コレも、やっぱ体験から理屈を導き出すことになる。とは言っても、勝手に考えた訳ではない、出典から導き出される帰結である。






それと並行して、なぜそのアクションが災厄を祓うのかの論理的なバックボーンが必要である。
その災厄は、私達の生活の様々な分野にわたり共通の根を持つ。
様々な表現者たちはその問題を描いている。そして力尽きていくのである。
何故ならば、その表現は特殊な場での分析であって、「人間とは何であるか」と言う論理のバックボーンがそこにはないからである。

僕はその「点」をつなぎたい。
人間とは何かという古典的で新しい定義を見つけたい。


「食事、イジメ、医療、介護」という人生の局面において私達が直面する問題である。
適切な「外注化のルール」が見つかっていないままに経済が私達を殺している。






次の本では、「消費」と言う言葉が重要なキーワードである。


ここで言う「消費」とは、「生産」の反対語ではない。

同義語としては、「従属・隷従」かなあ、価値のベースがどこ置かれるかである。


ADHDと診断されたの子供に対して、この子は病気だと思い薬を飲ませるか、学校がおかしいと考えて、異なった生き方を選ぶかの問題である。
注意しなければならないのは、学校に怒鳴り込みこと(モンスター化)は決して反権威ではないということである。
つまり、権威に自分を認めさせて、自分が権威の一番の代弁者だと認定されようとすることである。
私のPTA役員の時の経験が語っている。

黙って校長の言うことを聞くPTA役員は、子供を殺している。







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