父の酒 2杯の日本酒

ここ暫く、酒の量が過ぎるようになった。
2杯と言いながら3杯目も飲んでいた。

僕は、とにかく父の望むようにしたかったのだが、何とか減らしてもらいたいと思った。
毎日の飲酒傾向を見ると、酒を横においておいてなくなったら注いでいる。
僕は食卓で「何をするな」とか「何をしろ」とはいいたくなかったので、困った(注1)。


おおよそ3杯がいいところなのだが、やっぱり飲みたいものだ。
飲んでいる間はここにいれる。
家に帰っても、仏間には写真が待っているだけである。
寂しいものだろう。



22日の夕方、話をした。
2杯最初に注いでおいてその2杯が無くなったら終わりにするということにした。
順調である。
一回、一升瓶を誤ってテーブルの下においたら。3倍目をつごうとした。
慌てて約束が違うと取り上げたら、父は一言怒った。
直ぐに、そうだったなと言った。

のみたい気持ちなのだろうがあげないのは、なんとも辛い。


今日で6日目である。
まだ少し残っているので、2杯で2合ということはないのだなあ。

しかし、今年で89歳である。
元気なものだ。

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注1)
民主主義だと信じ込んでいる私達の家庭運用は独裁的である。
これは当たり前である。
生まれたばかりの赤ん坊や、適切な判断力を持たない構成員に「群れ」の運用を任せたら全体の悲劇となる。
何を食べればいいのか悪いのか?

食卓は自分が好きなように、欲望に従うことを厳しく戒める空間である。
反抗期と呼ばれる時期がある。
家族と一緒に食事をすることを避ける時期でもある。
そしてそれは、意味のある時期なのである。

食卓は、重要なリソースの再分配の場である。
そして分配とともに、将来に向けてのリソースの配分計画の策定の場でもある(注2)。







注2)
いつぐらいに田んぼ耕して、田植えして......秋の収穫までに構成員は労働力を提供して、収穫の一部を受け取る。
弟を大学に行かせて、学費の足りない分は、学校に行くチャンスを分け与えられなかった他の兄弟が提供する。

いずれも、リソースの提供と価値の分配が成立している。
市場を通じて分析する経済学派にとってみたら「リソース」と言う通貨で「価値の分配を受ける権利」を買っているといえる。
「恩」と言う言葉がそれを表している。

メンバーシップ性の経済学的に言えば、「会員権」を買っているといえる。

利率の良いコミュニティに投資するのが当然である。
問題なのは「義理・人情」「独自のコミュニティにおける人望」の様なそのコミュニティにおいてしか有効でない価値もその当人にとっては重要は行動基準になるのである(注3)。

重要な問題は、いつまで恩として感じればいいかである。
また、その逆もある。
一方的に「被害」を与えた場合である(注4)。



注3)
自爆テロのような自分自身の命を提供する行為も何らかの価値がそこには介在する。
刺客列伝の昔から、人は義によって死を選ぶ生き物である。




注4)
二次大戦時の日本軍が行った行為に対しての「謝罪」を考えればいい。
日本側は、もう謝ったのだからいいではないかと言う。
しかし、政府レベルでの謝罪は、個人ベースの記憶には関係しない。
ある意味、当時の政府同士の始めた戦争に対しては個人ベースにおいては自分の国に対しても複雑な意識を持つ。

そして複雑な問題が発生する。
国家間の交渉の手駒の一つとして被害者(民意)が使われるのである。

そもそも、日本と大陸の間は同一の市場経済圏である。
戦争も平和も経済におけるステータスの一部であり、大きな消費と売上を伴うイベントである。