10年以上前に高校でパソコンクラブの講師をしていた。自閉症を考える

もう辞めてから10年位前になるだろうか。
高校のパソコン部の講師をやっていた時期がある。
とても印象に残っている子がいた。

一切、僕や他の生徒に話しかけずに課題(タッチタイピングの練習と個人個人の勉強)をこなしていた。
決して目を合わせないで黙々と作業するのだ。

彼の卒業の最後日、僕のそばに来て、「先生ありがとう」とかすれるような声で言って、タイピングの指をしてくれた。

彼の精一杯の感謝に涙がこぼれそうになった。

自閉症っていうのは勝手な呼び名で、それぞれの人の心の状態は変わる。
そんなふうに思える。



考えてみれば、僕も他人と話すのは苦手だった。


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18歳の時に、僕は研数学館という水道橋の予備校に通っていた。
武田先生という英語の先生がいた。
当時は珍しく、英語の語源からの学習のペーパーを作っていた。
単語を接尾辞から並べたものだった。
社会学の研究者だったようで、授業のときに脱線して色々なことを話してくれた。

古文の先生と仲が良く、2つの授業で二人は相手をネタにして話をしているのが新鮮な漫才のようだった。
古文の先生は「まことちゃん」と武田先生の事を呼んでいた。

お二人に共通することは学び続けることの重要性を教えてくれたこと。
高校程度で落ちこぼれても長い人生学び続けることが重要なこと。

予備校時代は、わすれられない先生がもう一人居て、野呂先生という上智の大学院な何処かにいた人だった。
言語学の本を読み出したのも、社会学の本を読み出したのもこの時期の経験が大きい。



皆さん何をなさっているだろうか。



僕は、水道橋から神保町に歩いて、古本屋を回って帰るのが毎日の日課だった。


書泉グランデと言う本屋さんで、「英語逆引き辞典」と言う本を見つけてても嬉しかった。
浪人は2年研数学館でしていたのだが、殆どの古本屋を知っていた。
あの時代にあそこにいれたのは素晴らしい体験だった。



そして、浪人の2年目だった。
今年、大学に入れなかったら新潟に一回戻るという計画になっていた。
武田先生にお礼をいいに教官室に行った。

ものすごい勇気が必要だった。
先生にありがとうございました、と言って部屋を飛び出したのだった。





多分あの頃、僕は誰とも口を利かないで数ヶ月過ごしたりしていた。
故郷の母に電話するくらいだった。

辛いとは思わなかった。



時に思う、あの頃の僕を助けてあげたいと。

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