隠すべき病、ともに生きる勇気、Diabetes Anonymous始めます。

アメリカにビジネスの拠点を持っている人と友人になった。
その方とお話していたら、『日本に比べてアメリカには糖尿病の人が多い』と言う話題が出た。

僕は、糖尿病は社会の病だと思っている。
そもそも、糖尿病の定義は難しいので、多いとか少ないというのは簡単な比較はできない。
しかしながら、「日本は自分が糖尿病だということを隠す事が多いのではないか」と思っていると伝えた。


飲み会などの機会に、僕は自分が糖尿病だということを話す。そうすると眉をひそめる奴が必ず何人かいる。



曰く
「そんなことを話すと子供が可哀想だ(糖尿病が遺伝性のものだと硬く信じている)
「みんなが楽しくやっているのに嫌な気分になる(なんか罪悪感が有るんだろうねえ。)
「お前みたいな糖尿野郎とは酒は飲まない(これ本当に言われた、よほど僕が嫌いなのだろう)
「牛丼はやっぱ飯と一緒に食うと旨い(糖質を採らない食事制限をしていると話した時、「俺は糖尿なんかじゃない」って言わんとしている。)

ちょっと考えてもらいたい。僕が例えば、四肢欠損(手がない、足がない、車椅子から立てない)の様な状態だったら、そんなこと言われるだろうか?

僕のような2型の糖尿病患者は、「膵臓の組織が死んでいる(機能しなくなっている)」といえるのである。
外見は普通(?)の55歳だが内部の血管年齢は75歳なのだ。

完全な(膵臓の機能回復が見込めない)糖尿病は一種の身体障害と言って構わない。

無論、医者は早めにインシュリンと使って膵臓を休ませれば、元に戻りますと言うが.........
それがいつかは決して明言しない。「あなたの努力ですよ」と言うだけである。





私達はコミュニティにおいて「恐怖を感じるもの」を隠そうとする。「恐怖」とは得体のしれないものであり、対策の立てられないもの、逃避以外の道を選べないものに感じるのである。







【カミングアウト】

そして、カミングアウト(自分の病の告白)は苦痛を伴う。
そして、カミングアウトが社会を変えることはない。
社会が変わることと、カミングアウトは同時か、社会が変わるほうが先である。

無論、勇気ある先覚者を否定するつもりはない。
否定的な反応が、表につけ陰につけ、身の回りを包み込む。彼は社会の中で孤立して、やがて自分の居場所を見つけることになる。





病ではないが、普通と違う存在を社会がどう扱うかという例として『LGBT(レズ・ゲイ・バイセクシアル・トランスジェンダー)』を考えてみてもらいたい。
ロシアでは犯罪であり、同じアメリカでも南部の州(キリスト教原理主義地域=バイブルベルト)では考えられないであろうし、イスラム圏では、殺されかねない地域もある。

エイズを考えてもらいたい。初期の頃は原因も分からずに、ホモにくだされた神の鉄槌と祝福していた連中もいた。
今ではその発生のメカニズムも解明され、恐怖の対象ではない。
しかし、最近のチャーリー・シーンの例などを見れば今だにカミングアウトは困難を極めている。



ポッドキャストで北丸雄二さんが、『ゲイの高校生が英語のスピーチコンテストで自分がゲイであることをカミングアウトした』話をしていた。
僕は、北丸雄二さんが大好きなのだが、『勇気のある高校生で、カミングアウトすることで社会が変わっていく』という文脈で語られていたのには少し疑問がある。

無論、彼の勇気を否定するものでも、差別されている人間がその不当性を訴えることを無意味と断じるものでもない。

「コミュニティにおいて『共通の価値』を変えるものは何か」僕にとってはそれが最大の知りたいことなのである。
今現在の考え方では、そのコミュニティの共通の価値を生み出している『ボス』が変わらなければ、コミュニティの全構成員は変わらないというふうに考えている。


この高校生と、彼を取り巻くコミュニティが、どうなったか知りたい。

こちらに詳しいです。->「私にも夢がある」北海道の17歳、英語弁論大会でカミングアウト










コミュニティの「共通の価値」が「糖尿病=恐ろしい病気=インシュリン以外の対策がない」と考えている限りカミングアウトは社会を変えないのである。

そう信じているボスのもとで、「インシュリンを使わなくとも元気に生きていける」などということは許されないことなのである。

カミングアウトしても差別されない社会でなければ、カミングアウトの意味は無いのである。
ただ排除が激しくなるのである。








当尿病のカミングアウトには様々な反応が返ってくる。

多くの人々は、糖尿病は隠すべきだと言う。
みな、恐ろしいのだ。

僕は昔から隠さないでいた。

そして2015年糖尿病に追いつかれ、反撃をした。(まだ戦おうとしていた)

昨今の生化学は糖尿病を解明してきている。
当尿病のプロセスを学ぶことで、勝つことは出来なくとも共に生きる道を見つけられた。

それを同じ病で苦しんでいる人たちに伝えたい。









糖尿病は、個人の責任に帰されるものではない。

その人の人生で、れているとき他の選択枝がないほどに追い詰められている時、炭水化物はローコストで食欲を満足させる。

毎日共働きで早朝から夜半まで家にいない親が子供に500円で夕食を買わせるのを誰が責められようか
一人暮らしの老人がスーパーでアンパンジャムパンをカゴいっぱい買うのは仕方がないことだろうか?
社会の問題なのである。

人は自由意志でお店から惣菜や弁当を買い食っているわけではない。

新鮮な無農薬の野菜や、魚、肉を丁寧に料理した料理を食べたいに決まっている。
しかし、食欲を満たすという目的だけならばコストが支配する市場で満足するだろう。


そんな連鎖(自由主義市場経済グローバリズム)から抜け出すには、知識が重要だ。

そして、生活を変える勇気が必要なのだ。








僕は、他人にカミングアウトを求めない。匿名で繋がり合う事が出来るか、考えていきたいと思っている。そしていつか社会が変わればいいなと思う。


ということで、『生活を変える』為の仕掛けを考えます。
生活を変えるには、人間関係の中からしか変わらない。アルコホーリクス・アノニマスをモデルとした人と人とのつながりを作りたい。


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