『生活習慣病』という表現は欺瞞である。

病の責任を患者に持たせるというのは間違えている。



『習慣』と言うと、『牛丼、廻り寿司、コンビニ弁当、カップラーメン』こういったものを食べるイメージが有る。
いかにも医者や看護婦や栄養士が眉をひそめて「☓」をくれそうである。


誰も、好き好んでそんなものを「習慣」にする人はいない。


生活が苦しく、共働きで朝7時に出て、夜8時に帰ってくるような生活をしている人が子供にカップラーメンや弁当を買わせていることを責めることが誰に出来るだろうか。

子供の頃から食事を作ってもらったことがない大人は、それ以外の生き方を考える余裕はない。

老人がスーパーで「アンパンやジャムパン」を買い物カゴいっぱいに買っているのを見ると涙が出る。

月300時間も残業して必死に頑張っている人がジャンクフードばかり食べるのを愚かだと責める事ができる人がどこにいるだろうか。

社会の構造の問題なのだ。

そして、社会の構造の問題と考えなければ解決の道筋は見えない。




すでに習慣というっ言葉の中には価値判断が潜んでいる。

『手創りの出汁の効いたお味噌汁、丁寧に作った煮しめ、新鮮な魚をさばいた刺し身、厳選した無農薬米の炊きたてご飯』こういったものは習慣とは言わない事を考えれば明らかである。





医師や看護婦や栄養士は患者の食事を書き出させ○☓つける。
採点して、良い食事と悪い食事に分ける。
生活習慣病になったのは患者個人の責任だという。
インシュリン打つのも、透析に入るのも、眼底網膜病も患者個人の責任なのだという。

悪い食事というのは、その人の生活の結果なのだ。

その人の生活が悪いと言う前に、その人の生活の中でどうすれば「良い食事」を出来るのかを指導することはない。
と言うよりもそんなことは出来ないのである。





「糖尿病学」では合理的な家政学を含む。
家庭の中のパートナーが互いに協力して、時間のない中でどう自分たちを守るかを共に考える。

夫婦は確実にどちらかが先に死ぬ。
その時に、いかに自分を守るかのノウハウを得ておかねばならない。
夫が家事を手伝うのではない。
妻が先に逝った後で、自分を守る食事を一人で作らねばならないのである。


僕は、今、父母の食事を毎日作っている
どんな食事を作ることで老人になった時に元気に生きていけるかを学んでいる。
自分がいつかそこには到着する。
自分自身を守るために父母を守る。










糖尿病はかつて『贅沢病』と言われていた。白米ばかり食う社会階級の病だった。


今や、糖尿病は貧困の病である。


エンゲル係数と患者の相関関係を見てみたい。

明らかに「ジャンクフード(炭水化物で満足を与える食事)」を食べざるを得ない階層、一食500円以下で満足する生活をせざるを得ない人達がいる。
僕も、かつてそんな一人だった。この一年の生活は、大きな気付きであった。



私たちはほんの1−2世代前までは、家業を持ち、3世代が同居して生きていた。
年老いた親はどちらかが先に死んでも、子供や孫が食事を作ってくれた。
今では、タクシーでスーパーに行って「ジャムパンやアンパン」を買って帰り一人で食事する。

妻は家で食事を作り、外食を嫌い、子供が買食いするのを止めた。
今では共働きで子供に500円玉一個で晩飯を選ばせる。
毎日積み重ねられる「食」は未来を作っている。

そして、どんな未来が待っているのだろうか。


グローバリズムは、人を守っていたバリアを破壊した。
身近なところには仕事がなくなり、遠くに働きに行く生活は地域のコミュニティの成立を困難にした。
ジャンクフードを売るコンビニの林立と、様々な意味の多忙は、家事を駆逐した。

自分が老人となり、弱者となった時に始めて、この社会が弱者を食い潰す社会だと気がつくのだ。


糖尿病となった時に気がつくのだ。







食えりゃ良いんだけどね。
街角に500円で満腹にステーキ食える店が沢山ありゃ良いんだけどね。
食いたくても食えない人の事も考えてくれ。
買ったけど、この人あまりに偉そうで、憂鬱になった1冊。

糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい (講談社+α新書)

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