社会の病としての糖尿病、「病理社会学のススメ」

糖尿病が社会の病であるという言を書いた。

確かに、遺伝的形質もあるだろうが、戦後の患者数の増加の説明はできない。

先日、新潟市の市民プラザで『「運動」量が減ったから糖尿病が増えた』と大学病院の偉い人が講演していた。
僕にはもっと大きな原因が有ると思えてしょうがない。

現状と、社会の状況の相関関係を調べるのは非常に難しい。

教育社会学の分野では、子供の学力と家庭の状況(収入、共働きか否か、パソコンは有るか、塾は?)に強い相関関係が見られている。また高学歴であるということと高収入であることの間にも同様の関係が見られている。その帰結として貧困が再生産されていると考えられている。



同様のことが、糖尿病にも言えていると思う。

昔は贅沢病と言われていたが、今は、貧乏人や老人のかかる病気だ(おそらく)。


『ステーキを食いなさい』などという本があるが、毎食ステーキを食えたらいいのだがねえ。

貧乏な僕などは、ステーキの一番小さいやるにご飯大盛りで食べておったなあ(笑)。






一回の食事にいくらかけているだろうか? エンゲル係数と糖尿病の関係はすぐにでも知りたい
外食はどのくらいしているだろうか? 一回の食事の金額と、食事の内容は密接につながっている。どんなお店に行くかでおおよそその人の社会的な階級は分かる。
朝夕の食事を作る時間は有るだろうか? 通勤+労働時間が十分余裕が無いと、難しい。当然共働きも関係する。
平均寿命はどのくらい伸びただろうか? 老人になると、糖尿病と同様の現象が起こる。これは、しょうがないことである。しかし、スーパーで買い物する老人のカゴにジャムパンやアンパンが溢れているのを見ると憂鬱になる。自分の30年後である。高血糖の状態に「さらされた」時間の長さで合併症が進むとすると寿命の長さは大事な要素である。
ジムやプールに行けるのは金と時間の有る場合である。 僕はプールと血糖値自己測定で月2万くらいかかっている。インシュリン治療をするのと同じくらいのコストである。これは生活に響く。


僕が月15万円の手取りの工場の労働者だったころの事。
昼食には360円位しかかけられなかった。
肉体労働だったから、病は随分良かったが、その頃の弁当の中身を考えると少し問題があったよ思う。
360円で満腹にさせて、利益を出すにはそれ相当の工夫が必要である。
一番の簡単な方法は、「炭水化物」である。




年取っていくと、料理をつくるのも面倒である。
また、最新の栄養学などを考慮にいれることもない。
自分のやり方を変えない(保守的な)調理法も問題となる場合が多い。
必ず、妻か夫のどちらかが先に死ぬ。
一人になると、食事は簡単に済ませる場合が多い。簡単な食事は、問題が多い。




社会の問題と病気を考えると、色々なことが見えてくる。

少し考えていこう。

自分の問題である。



毎日の食事であるが、朝晩の調理時間と買物の時間を考えると3時間はかかる。
これは共働きでは難しい。



1日3〜4000円で6人分の3食を作っている。炭水化物を使わないで子供に満足を與えることは出来ない。
なので、人それぞれに、食事を組み立てなけなければならない。

出来るだけ定番の料理を考える。
作り始める時に何を作ろうかと考えない。買い物に行った時に決めておく。
朝は考えないで作る。おおまかに以下のとおり出ある。
味噌汁+魚(ヒラメ系の煮魚)+鶏胸肉茹+卵料理(父母にはポーチドエッグ)+子供向けの選択肢(豚肉、ハム、ベーコン、グラタン)

夜は3種類くらいの定番と季節の選択肢を持って買い物に行く。
いいものがなかったら定番に落とす。
父母の分は、ベビー帆立(歯のない母向け)+刺し身、小鉢で様々なもの

手順を一定化する。

一年続けてなんかわかってきた。
僕らは、多くのものを失ったということを悲しんでいけない、新たに作れば良いのだ。
30年後の自分をイメージする。そして、明日のアクションを決めるのだ。






皿洗い機は強力な武器である。






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