父母のための栄養学(1)
ヒトと他の動物の違いを論じるとで「料理」が挙げられる。
食卓を囲み一緒に食事をするのは「ヒト」だけだと論じられる。
ほとんどの生き物は遺伝のレベルで「何を食べるのか」ということが組み込まれている。
ヒトは「料理」と言うプロセスを持ったことで環境の中のあらゆる物を食べることが可能となった。
偉大な発明なのである。
ヒトが他の生物と異なり、これだけ広範囲な「地球環境の中」に広がれたのはこのためである。
当然、「料理」は学習される必要が有ることになる。
僕が、「タクワン、竹の子、梅干しや干柿」の作り方を父母から学ぼうと考えたのも、伝統として学びたかったからだ。
2014年末、母は腰を痛めて台所に立てなくなった。隣に住む僕がと妻で二人の食事を作るようになった。
以前から、料理をつくる度に持っていっていたが、本格的に父母の食事を考える必要が出てきたのである。
食育という言葉が色々な所で聞くことが多いが、その使われ方に違和感を感じる。
また、料理は、調理の技術に裏打ちされた日常の行動である。
適切な栄養学の知識をバックボーンに持ち日常の生活で実践されなければならない。
ここが一番の問題である。
僕の食事傾向は母の作ってくれた食事から生まれた。
焼きたての鮭に醤油をかけて漬けにして食べるのは、母が小さいころ生活を送った実家でたくさんの住み込みの弟子とともに食べた味である。
好き嫌いは大事なことである。
子どもが食事を残すと親は「好き嫌いをするな」と躍起になる。
これは間違いである。
人はみな成長の度合いが違い、必要とする食事(栄養)も違う。
異なった人に均一のものを食べろというのは間違えである。
食べる相手のことを考えて、食事を作る。
あたりまえのことなのだが、猛烈に難しい。
「料理を作る」ということは「学ぶこと」によく似ている。
ただ単に出された料理を食べるのではなく、自分の体に聞いて、何が必要なのかを感じ取る事がいかに重要かということは年をとった時にわかる。同じことは学習でも言える。
その人の内在的な理由を考えないで、やだ勉強しろと言ってもそれはほんとうの意味の「学び」ではない。
「銀行型学習=先生は生徒に知識を預入れて、試験で取り出す。」でしかない。自分自身に内在的理由を持って、現実の問題に対峙し、解決を探す事こそが「学習」である。
僕はII型糖尿病である。
僕は食事日記を付けて、カロリー計算をした。
何度も、色々な所で食事指導を受けたが、いかに役に立たないことが多かったか。
医者は、マニュアルと自分の経験で食事指導をする。ある医者は、「糖尿病は足を切断したり透析を始めたりする」「コンニャクを食え」と繰り返した。
有る看護婦は、僕の食事日記を見て、食い過ぎだと言い、自分も食べ過ぎる傾向にあるから我慢しているのだと言う。責任を患者の生活に押し付けて、病気の悪化は自分たちの責任ではないと言い訳をするのが彼らの食事指導だった。
しかし一番重要なのは、その患者がどんな食生活を送ってきたのかということではなく、これからどんな生活をするのかということである。
そんな未来を共に語り合えない輩に「食事指導」などできるわけがない。
考える事しきりである。
自分として生きるためにはどんな料理を作ればいいのか考え、記録することにした。
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