そろそろ冬である。「リレンザ売りたい人々」が活動を始めたのだろうか。

まあ、商売だからなあ。

リレンザ売って給料もらって生活しているのだからしょうがあるまいと思う。

今年の年末インフルエンザのシーズンはじめてのレスである。

インフルエンザの季節なんだねえ。
頑張って生きていただきたい。



子供達には、自分の信念を曲げた生き方はしないでいい様な強さを学んでもらいたい。

子どもが、高校を卒業すると「親」はもうそれからのことは子ども任せにする。
就職したり、大学に入れれば自分の義務は終わったという。

残念ながら大きな間違えである。
大事なのは、その後の長い人生である。

中学高校の間、僕らは、子どもに勉強しろという。
そしていい成績が取れたら「褒める」駄目なら「叱る」。
子どもは、人生の目的を学ぶこと無く、「親や教師」に褒められたり叱られたりすることで安心する。
大学に入れば、サークルの先輩に褒められたり叱られたりすることで安心する。
会社に入れば、上司や社長に褒められたり叱られたりすることで安心する。

人生の困難を自分の問題として解決を探すことはない。
サークルの先輩や会社の上司のために人生を生きるのである。

リレンザ売りたい連中も、大学ではサークルで先輩との上下関係を学んでいたと面接で言って会社入って、webでこういう書込しているのだろうなあ。
自分の子供が、薬害にあってもお上の認定した薬だからと言って自分の大事なものを見えないままに生きるのだろうなあ。


アドラーは言う、子どもを「独立した人間」として育てたいならばになってもらいたいならば「叱るな」「褒めるな」と
そのとおりである。
中学に入ったら、子どもは親の幼虫ではない。子どもを育てるなどと思いあがってはいけない。
子供達は、僕らが夢にも見なかった未来を作ろうと必死なのである。

学ぶということについて、最近色々と考えている


僕は子どもが試験で悪い点数をとった時こう話す。

「そのままの自分で一生過ごしていいのか?、君は今のままで40−50歳になっていいのか?」

親や、教師に褒められることが学習の目的ではない。
「学習」は今までできなかったことが出来るようになる「喜び」である。

時に、親や教師と異なった結論を見出すことも有るだろう。
僕は、時折子どもの些細な一言にその片鱗(健全なる反抗)を見出し涙ぐむことが有る。
何で涙をこぼしているのか彼らにはわからない。
しかし、僕は嬉しいのである。

自分自身を見つけ出す長い旅の途中にいるのだと感じる。
僕に出来る事は自分の愚かな過ちを語ることぐらいである。

決して彼らの反抗を矯めてはいけない。


自分を『育ててくれた全ての存在』から離れて一人きりになった時に自分自身であることが出来るのかということである。

しかしながら一つだけ注文がある。
大学に行くことになったならば、「サークル」と「バイト」は禁止である。
遊んで4年間を過ごして、自分をいい子いい子してくれる先輩と仲良くなっても、それは人生において何のメリットもない。

自分が社会に何を返せるのか見つけてもらいたい。

僕は、そんな人生を生きているのかなあ。
今も問い直しながら毎日を生きている。

いつか、人を雇える企業となって、子供達に帰ってきてもらいたい。
もう54歳だから、最後のチャンスだが、あがき続けたい。


人生は苦難の連続である。
サークルの先輩も、会社の上司も君の人生の責任をとってはくれない。

あらゆる問題は、自分の問題である。
だからこそ、努力する価値がある。




干柿が出来たのだが、余りお日様があたらないので部屋の中で乾かすことにした。



東京の友人に送ろうと思う。

大根を20本買ってあるので干してタクワンにしなければならぬ


人生は、楽しい。
自分が自分であることに満足している。

そして、もっと前に進まなければならない。

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