「いきれる」児童の制御方法としての指導代行者としてのいじめっ子

私は「いきれる」子でした。多動児(ADHD)と現在では分類される子どもでした。(恐らく)


多動児(ADHD)と学級崩壊の関連性に関してはもっと考えねばならない問題です。
高校の頃、隣のクラスで特定の先生の授業の時にバスケットボールを黒板に投げつける子がいました。授業中に「ドーンドーン」と壁が揺れるのです。先生は何も言えないで板書を続けます。あきれ果てた別な先生が外からジーっとその子をにらみます。その子はそれに気がつくと止めるのでした。



私には4歳年長の兄がおり、家族の中で目立つためには背伸びした言動が必要です。集団の中で、自分の言動がピックアップされた時にその言動を繰り返す事が多かったと思っています。家族で食事していても同じネタを何度も繰り返して、うるさがられたりしていました。

中学一年の時に、理科の時間に「うるさい」から教室から出て行かせられたことがあることをよく覚えています。

友達が出来るのも早かったけど、すぐに嫌われました。高校の頃「お前は自分が面白い時だけ俺に話しかけるけど、いつも無視するじゃないか」と友人だと思っていた同級生に言われたことは今でも時折思い出します。


私が中学校二年生の担任は、授業中(いきれる)私に対しての対処に対して大変な困難を感じたことだと思います。



教師の指導方法、多動児の行動、いじめっ子がその子を「うざい」と感じていじめる行動、いずれも理解できます。



大学を出て、最初に私は「ある出版会社」に務めました。編集会議で編集長に怒られたことを非常によく覚えています。編集長が締めの言葉を話した後で「それはこういう事ですね......」と話してばかりいて、「そういうことは言わなくていい」と言われたのです。私としては自分が理解しているということをデモンストレーションしたのでしょうが、その場の支配者から見るとまさに「うざい」と感じられたことでしょう。

私はその会社を半年で解雇されました。

いじめられている子どもに対して、「お前にもいじめられる理由がある」と言い放つ先生がいると思います。気持は良く分かりますが、適切な指導ではないと感じます。(かと言ってどう対処すればいいのか分かりません。)

人間の集団をコントロールして一定の成果を上げることの困難さを感じます。


一般的に人の友人関係を観察していると、短期間で非常に仲良くなった後に「あいつはうざいから嫌いだ」と疎遠になることがあるような気がします。また、同様に昨日まで仲良しだったのが、嫌われることも見受けられます。

人間一般的の問題として、いかに人間関係を作っていくかという事を学ぶ長い道のりなのだと思います。

そういえば、昔は漫画で廊下でバケツもって立たせられる子どもが描写されていましたねえ。カート・ボネガットさんや筒井康隆さんのエッセイの中にこの問題を論じているものがあります。





決して、子どもに特異的な問題ではなく、私達一般の問題だと思います。

私は仕事柄(システムの仕様を作成するための)多くの打ち合わせ、会議に出席します。
会議を上手く進行させるためには、出席者になにか花を持たせて、意見を統合していくことが重要だと思っています。
それが出来ないと、最初に結論があり、それを周知させるという「日本型会議」になりがちです。

日本型会議では、支配者の代行者が、支配者の意見を手さぐりしながら参加者を支配するというパターンが有ります。

システムの会議では、私の言うことに対して担当者が色々な回答を行いながら責任者の顔色をうかがいます。
決して責任者は自分から発言することはなく、担当者に言わせます。決して決まらない会議です。後で問題が起こった時には責任は私と担当者にあることになります。担当者が突然会社を辞めたりするのです。



部長に媚びを売る課長、社長に取り入ることの上手い社員、彼らはプラスにその特徴を活かしているのでしょう。(腹立たしいことですが)

『人間の集団の中でいかに自分を処していくのか』を学ぶのは難しい。
人前でバイオリンを引きながら練習するようなものです。一人きりでは学べません。
失敗を繰り返しながら見つけていく他ないのかもしれません。


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