いじめ:《いじめを見ている君へ》田中泯さんのコメント

朝日新聞の記事で、まともだなあと思える記事は少ない。

田中泯さんの意見はまともである。
子どもを大人の幼虫ではないと言っている。
子どもが大きくなって肉体的に子どもを作れる様になると、その状態を大人と呼ぶ。

ある日突然子どもではなくなるという点も素晴らしい。
社会はそれぞれに『通過儀礼』をもつ。
セックスをして子どもを作ると言う事はそのlocalな社会の構成員となると言う事である。

七人の侍で、若い侍が村の娘とセックスをして、その後で「もう子どもではないのだから...」とリーダーに言われる。
村人達が笑う。



司馬遼太郎さんの江戸〜明治期の社会を描いた小説の中で、村祭りの時は、男女がセックスを初体験する夜なのだと言う事が描かれる。(確か新撰組のお話で読んだ様な気がする)

localな社会では誰が誰とセックスをしたかという事は公然の秘密であった。

今の社会はその様な仕組みが失われているのだ。
『結婚』が「経済」の問題と一致してしまっている事。
家庭に財産が結び付いてしまった事。(複雑な話ので今度書きます)
DNA鑑定などで、生物学的な父親が簡単に判明してしまう事。
女性が『処女』で有る事が高く売買される事。(結婚においても処女である事は重視される)



結婚=フルタイムの性関係=対価:生涯を通じての生活の保障
売春=パートタイムの性関係=対価:市場における時価
不倫=パートタイムの性関係=対価:相互の性欲の解決
と僕は考えています。

そして、セックスの対価を決めるのはヒトの場合主導権は「女性」サイドである。
男は、それに金銭や自分の要望、静的な満足感を与える事を対価として支払うのだ。

自分を顧みても、localな社会の中でいつ誰とセックスをするべきか(子どもから大人になるべきか=通過儀礼としてのセックス)は全く見えなかった。
本来、localな社会が持っている暗黙の共通認識であったはずなのである。



母親が娘に自分の体験を話、父親は息子に自分の体験を話す。
そんなことは有ったのだろうか?
日本は、年齢別の横割りの集団で構成されていると言う事を文化人類学の本で読んだことが有る。
祭りなどの構成を考えると良く分かる。



青春を題材にした映画や小説などでも繰り返し表現されている物語である。



しかし、田中泯さんのおっしゃっている意見を目にする事が出来るのは嬉しいものだ。
この人には見えている。
先の何処かの馬鹿なガマガエルとカバの掛け合わせに比べたら天と地ほどの開きが有る。




もしかしたら、アーチストにはいじめられた経験の持ち主が多いのかもしれない。
少し考えてみよう。


朝日新聞デジタル 2012年7月19日23時1分より

《いじめを見ている君へ》田中泯さん


■今の自分、カッコいいか

 最初に断っておくが、いじめは子どもの責任じゃない。大人の責任だ。子どもはきょろきょろ大人を眺め、大人のまねをしているに過ぎない。

 大津の問題では、自殺から9カ月が過ぎたというのに、今ごろ大人たちはバタバタしている。学校も教育委員会も警察も自分に都合のいいことばかり言う。

 君は、大人の「見せかけの本音」を見抜いているだろう。言い訳で身の回りを固めた大人たちの姿をカッコ悪いと思うだろう。

 でもね、大人だって、かつては子どもだったんだ。君だって大人になるんだよ。ある日突然、子どもを卒業して大人になるわけじゃない。今の君の生き方が大人の君をつくるんだ。

 今、君がいじめを見て見ぬふりをしているなら、大人になった君もきっと傍観者だ。面倒な問題とは無関係な安全地帯に身を潜めるだろう。それでいいのか。

 僕も小学校時代、散々いじめられた。背が低く、どもりもあったから。土に埋められ、砂も食わされた。誰も助けちゃくれない。でも逃げ場はあった。川や森に逃げ、独りで過ごした。そこで孤独の素晴らしさを知った。

 協調性ばかりが求められる世の中だけど、僕は孤独が大事だと思う。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。

 君は親や先生や友達の前ではカッコよくふるまうだろう。でも、周囲に知人がいない孤独なときにこそ、カッコよく生きてほしい。僕が思う「カッコいい」の意味は、自分の生きている理由を自分で考え、自分の意思で行動できることだ。

 孤独なときに考えてごらん。今の自分がカッコいいかどうか。どんな大人になりたいのか。進学先や就職といったちっちゃな話じゃないぜ。いじめられている友達の顔も思い浮かべてごらん。そこで考えた結論が、「大人の君」を決定づけるかもしれない。(舞踊家



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