ユルマズ・ギュネイの『路 (yol)』映画の話です
この映画を見たのは確か新宿だった。
1982年の映画なのだが、多分1984年くらいに見た様な気がする。
DVD化されていないので、見ることのできない映画の一つだろう(VHSはアマゾンで買えるようである)。
一見、この映画は「トルコ」がいかに『遅れているか、人権が尊重されていないか』と言う事を語っている様に見える。
しかしながら、それは表層的に見た感想にすぎない。
同じ人間として、そこに生きるの苦悩と喜びを描いている。
人間である以上必ず生じる『社会と個人の葛藤』を描いている。
それは普遍的な問題である。
そこに生きる人々は、その世界で生きている。
様々な矛盾を抱え、生きているのだ。
伝統の中で行きて行く事は辛い物だ。
その社会の生産性の中から人々は生きるルールを作り、ルールにしたがわなければコミュニティ自身が成り立たないためにそのルールに従う。
しかし、人としての心は常にルールと対峙する事になる。
その心に従ってルールを破る事が『坂口安吾の言う所の堕落』である。
人は落ち続けなければいけないのである。
そして社会は変わって行く。
ソシュールのラングとパロールの関係である。
伝統的な文化を否定してはいけない。
それはそれなりに意味が有ったのである(有るのである)。
この映画では、いくつかのシークエンス(確か5つ)が重なって行く。
刑務所から何日か釈放されて家族に会いに行く5人の男の物語である。
クルドの戦い、お気楽な男のシークエンス、銀行強盗で義兄を裏切った男、ちょっと不運な男のお話。
全てのシークエンスは辛くほろ苦く、笑いを誘い、物語は進む。
僕はいつも最後のシークエンスに涙する。
刑務所に入っている夫、生活のために体を売った妻。妻を夫は殺さねばならない。
最後の瞬間に男は妻を愛している事や、いかに妻が辛く人生の選択をしたかを悟る。
ああ、ギュネイって素晴らしい物語を作るんだなあ。
彼はトルコの政権から何度も暗殺されかける。
クルド人である彼は語り続けなければならなかったのだろう。
この映画は、刑務所の中から指示をして仮出獄の時に脱走してパリで仕上げたそうだ。(wikiによると)
作家は彼に見えている物を作品を通じて語る。
そして普遍的問題が描かれている作品は、歴史も地理も超えて僕らに語りかける。
物語の終わりは暗い、先が見えない線路を進む様に彼らの人生は進む。
彼らは、今もこのフィルムの中に生きている。
この映画を見ていると、僕が、彼(全ての登場人物)の立場だったら、きっとそうするだろうと感じる。
共感する心こそが重要なのだ。
こう言う素晴らしい映画を見ると、同じ人間で有る事を実感する。
そして社会自身は常に問題を抱えているのだ。
僕は、この映画を見た時に「日本」はそんなに進んでいるのかと問い返した。
今も問い返している。
社会や文化、コミュニティの進んでいるとか遅れていると言う尺度は常に変わる。
今の日本は格差があり、片方では勝組と言われる人々がいて、明日の生活もままならない市民がいる。
こんな格差が有る社会は正しいだろうか?
社会的な摩擦の見えない奴隷制度が進行しているとは思えないだろうか?
伝統文化は破壊されて、市場経済の中で人々は人生を消費されて行く。
搾取(古い言葉である)は目に見えなくなっているために戦う事さえままならない。
この映画のシチュエーションは戦う物が見えるだけ幸せである。
僕は、今の日本が進んでいるとか、優れているとは思えない。
社会は「優れている」「進んでいる」と言う物差しでは計れないのだ。
時が来たら子どもたちに、そして親しい友人に見てもらいたい映画である。
昔、オークションでDVが出ていたので買ったら、VHSをDVDにダビングした物であった。
画質が悪くて悲しかったが、見る事ができると言う事は貴重である。
DVD化される事を切に望む映画の一つである。
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