いじめについて考える 2 文部省のいじめに関する通知

修復的司法とは何か―応報から関係修復へ

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性暴力の理解と治療教育

性暴力の理解と治療教育


文部省のいじめに関する通知を友人に聞いて知った。

実に、抽象的で、どう行動をして良いのか分らない文章である。

『「いじめが人間とし許されない」事を教育すれば無くなる』と言う文章が有るが僕は間違えていると思う。
そんな事は、誰でもしっている事である。



教育でいじめが無くなると言うのは幻想である。
無くなる物だったらとっくに無くなっている。
アプローチが間違えているからなくならないのだ。



「いじめ」は性犯罪と同じ様に扱わなければいけない。

犯罪者は、犯罪を犯して捕まれば刑務所に行くことを知りながら犯すのである。
そこにはどうしようもない人間の性(サガ)があり、社会と個人の葛藤がそこにはある。
文学や様々な芸術の根源でもある。


性欲、支配欲と言うのは動物として存在する人間の最も核になる「第一発言者」である。




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たとえば、「ストーカー」と呼ばれる行為は犯罪であるが、犯罪として認定される(構成要件として定義される)までは犯罪ではなかった。
ストーカーと言う犯罪の根底には「性欲、性的嗜好問題」がありそれを理解しなければ見えてこない。

ストーカーの加害者と被害者は、かつて相思相愛だったり、未来において結婚したりすることも有りである。
ブコメ(ボーイミーツガール)の類型を考えれば、いじめとの類似性が見えて来ると思う。


「幼児虐待」も同じである。
かつては(文化によっては今も)「同性愛」は大きな犯罪である。

どのように社会が個々の人間の行為を取り扱うのかと言うのは面白い課題だと思う。


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僕は、今「仮説」をたてている。

いじめはレイプの様な性犯罪の一種である。
社会的にセックスが出来ない人間(この場合は小学生)がその性欲を発散させる手段が「いじめ」である。


問題の根源は「子どもと担任の性欲である」
子どもの性欲をまともに取り上げている文献って有るのだろうか?
教師の持つ性欲ってどう分析されているのだろうか?

クラスの中で教師と言うボスザルが選定した代行者(加害者)がボスザルの嫌う子ども(被害者)にストーキング、レイプやを行うというモデルを考えている。

ボスザルが嫌う子どもと言うのは「支配出来ない子」どもなのだ。
ボスザルがなぜ嫌うのかと言う所を分析するには「ボスザルの性欲」が絡んで来くる。


僕らは生きて行く上で、「虫が好かない」人間と言うのはいる。
しかし、教師が虫が好かないなどと言う事は許されない。

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解決するには修復的司法のアプローチが必要である。
加害者を罰するのではなく、加害者と被害者の人間関係を元に戻し、社会全体の関係をより好ましい物にする事である。



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映画や小説で「小学校のクラス会でかつてのいじめの被害者と加害者が会って余りに違う事を体験する」と言うのは時折ネタになる。

いつまでも、今の自分ではなく、変わって行く為に生きているのだと言う事。

それが分れば良いのだが。