皿洗器(食洗機)と付き合う
最初は、東京で高田馬場から中井に引っ越した時に買った。
27−28歳の頃だと思う。
この写真を見ると、今でも使っている鍋や道具類がある。
何とも懐かしいものである。
この時の食洗機の宣伝のコピーをよく覚えている。
皿洗い機を買ったのではなく「二人の時間を買った」というようなものだった。
当然のことながら、彼女はついてこなかった。
7=8万円だったような気がする。
もしかしたら、物置に有るかもしれない。明日探してみよう。
食洗機というと、『レイチェルの結婚』と言う映画を思い出す。
アンハサウエイ様の出ている映画で、ワクワクしながらDVD借りて、憂鬱な内容に悲しい思いをしたのである。
パーティで、食洗機にどれだけ皿を入れられるかを競うシーンが有ったような気がする。
僕も最近まで、「沢山詰め込む派」だったのだが、今では『綺麗に洗える事が最低条件の最大挑戦派』とでも言うべきものとなった。
皿洗い機に関しては、妻と何度も離婚寸前の喧嘩になった。
僕が入れて、綺麗になっていないと、怒るのであった。
僕は『なんどでも洗えばいいじゃないか』と言うのである。
洗えない機械が悪いという考え方である。
妻は、この食洗機の限界なのだから、洗える量を少しだけ入れて、何度かに分けて洗えばいいという。
彼女が正しかった。
継続的に、台所仕事を行うには、効率性を重視しなければならない。
そちらにしても、汚れ物はなくならないのだから、どれだけ維持するべきかをポリシーとして決めていけば良いのである。
そしてマニュアル化すれば良いのだ。
マニュアルは変更可能だが、信念は変更できない。
思い込みは変更できないが、仮説に基づいた手順はトライアルで確認していける。
自分を変えることは困難であるが、世界で変えられるのは唯一自分自身だけである。
ところで、「プラダを着た悪魔」が見たくなった。
アンハサウエイって大好きである。
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社会の病としての糖尿病、「病理社会学のススメ」
糖尿病が社会の病であるという言を書いた。
確かに、遺伝的形質もあるだろうが、戦後の患者数の増加の説明はできない。
先日、新潟市の市民プラザで『「運動」量が減ったから糖尿病が増えた』と大学病院の偉い人が講演していた。
僕にはもっと大きな原因が有ると思えてしょうがない。
現状と、社会の状況の相関関係を調べるのは非常に難しい。
教育社会学の分野では、子供の学力と家庭の状況(収入、共働きか否か、パソコンは有るか、塾は?)に強い相関関係が見られている。また高学歴であるということと高収入であることの間にも同様の関係が見られている。その帰結として貧困が再生産されていると考えられている。
同様のことが、糖尿病にも言えていると思う。
昔は贅沢病と言われていたが、今は、貧乏人や老人のかかる病気だ(おそらく)。
『ステーキを食いなさい』などという本があるが、毎食ステーキを食えたらいいのだがねえ。
貧乏な僕などは、ステーキの一番小さいやるにご飯大盛りで食べておったなあ(笑)。
一回の食事にいくらかけているだろうか? | エンゲル係数と糖尿病の関係はすぐにでも知りたい |
外食はどのくらいしているだろうか? | 一回の食事の金額と、食事の内容は密接につながっている。どんなお店に行くかでおおよそその人の社会的な階級は分かる。 |
朝夕の食事を作る時間は有るだろうか? | 通勤+労働時間が十分余裕が無いと、難しい。当然共働きも関係する。 |
平均寿命はどのくらい伸びただろうか? | 老人になると、糖尿病と同様の現象が起こる。これは、しょうがないことである。しかし、スーパーで買い物する老人のカゴにジャムパンやアンパンが溢れているのを見ると憂鬱になる。自分の30年後である。高血糖の状態に「さらされた」時間の長さで合併症が進むとすると寿命の長さは大事な要素である。 |
ジムやプールに行けるのは金と時間の有る場合である。 | 僕はプールと血糖値自己測定で月2万くらいかかっている。インシュリン治療をするのと同じくらいのコストである。これは生活に響く。 |
僕が月15万円の手取りの工場の労働者だったころの事。
昼食には360円位しかかけられなかった。
肉体労働だったから、病は随分良かったが、その頃の弁当の中身を考えると少し問題があったよ思う。
360円で満腹にさせて、利益を出すにはそれ相当の工夫が必要である。
一番の簡単な方法は、「炭水化物」である。
年取っていくと、料理をつくるのも面倒である。
また、最新の栄養学などを考慮にいれることもない。
自分のやり方を変えない(保守的な)調理法も問題となる場合が多い。
必ず、妻か夫のどちらかが先に死ぬ。
一人になると、食事は簡単に済ませる場合が多い。簡単な食事は、問題が多い。
社会の問題と病気を考えると、色々なことが見えてくる。
少し考えていこう。
自分の問題である。
毎日の食事であるが、朝晩の調理時間と買物の時間を考えると3時間はかかる。
これは共働きでは難しい。
1日3〜4000円で6人分の3食を作っている。炭水化物を使わないで子供に満足を與えることは出来ない。
なので、人それぞれに、食事を組み立てなけなければならない。
出来るだけ定番の料理を考える。
作り始める時に何を作ろうかと考えない。買い物に行った時に決めておく。
朝は考えないで作る。おおまかに以下のとおり出ある。
味噌汁+魚(ヒラメ系の煮魚)+鶏胸肉茹+卵料理(父母にはポーチドエッグ)+子供向けの選択肢(豚肉、ハム、ベーコン、グラタン)
夜は3種類くらいの定番と季節の選択肢を持って買い物に行く。
いいものがなかったら定番に落とす。
父母の分は、ベビー帆立(歯のない母向け)+刺し身、小鉢で様々なもの
手順を一定化する。
一年続けてなんかわかってきた。
僕らは、多くのものを失ったということを悲しんでいけない、新たに作れば良いのだ。
30年後の自分をイメージする。そして、明日のアクションを決めるのだ。
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目のケア、精密検査
昨日(2015/12/2)は、眼底の撮影をした。
2015/11/20の診察を受けて、今回はより精密に状態がわかる検査を行った。
投影剤を点滴して、白黒写真で眼底の血管の状態を取るのである。
投影剤は出血の箇所を特定するために点滴で入れる。
『緊急の手術の必要はないが、経過は見なければいけない。』という結論になった。
血流を良くする薬が出た。
『半年に一回くらいの投影剤での眼底検査、月1回の通常の眼底写真での検査』こんな感じで行くことになった。
いろいろな実験をしながら、経過を見たい。
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「足のケア」、皮膚全体の話
突然、カサビタが出来る現象に関して論じている人は少ない
(というか見たことがない)。
数日前のエントリーで「足のケア」について書いた。
僕の場合、突然、カサビタができるのである。
本当に、突然なのである。
例えば、このすねの部分は数日前から『ヒリヒリするなあ』とか思っていたのだ。
突然、カサビタになっているのである。
この部分を引っ掻いたりはしていないのである。
一週間前に比べて、ずいぶん小さくなってきている。
不思議である。
最近、妻に、「僕が入ったあと『風呂が汚くなくなった(綺麗になった)』」と言われた。
足の平の皮膚がボロボロと落ちていたのが落ちなくなってきているらしい。
確かに、足の皮膚が半分剥がれている状態のところが少ないのである。
何かあったのであろうか。
足の指がじんじんするのは変わりないが、結構日によって変わる。
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12/8なのだが、ほとんど乾いてきている。
もうすぐポロッと落ちるのである。
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毎日変わる血糖値プロファイル
この1ヶ月の血糖値の推移である。
ここ数日の血糖値が低く止まっている。
何がきっかけなのだろうか?
体重と体脂肪率は目立った変化はない。
11日、ウオーキングを開始した。食事はおでんであった。
その後、ほぼ毎日簡単なストレッチしている。
その前にも低い日はあるが、この日は昼を抜いていた。
また、20日は眼科医院で素晴らしい先生とあった日でもある。
これも関係するかもしれない。
何が血糖値プロファイルを変えるのかわからないが、変わっていることは確かである。
NSPのデータを見るとエラーが出るが仕方がない。
直すと少し時間がかかるので来年仕事である。
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糖尿病=「社会のカナリア」試論
『食事はアウトソーシング出来ない』これが言いたいことである。
【 II型糖尿病の捉え方には2つの考え方がある。】
1)社会の構造的変化 <----> 2)患者の不摂生
無論、その両者は、分かちがたく、混合されるが、最終的にはどちらかに収斂する。
戦前は殆ど無かったものがこれだけ増えているのだから、原因は環境にあることは明らかなのだ。
しかしながら、発病の有無が個人で違うことや、肥満と結びついているという2点が患者の責任論を生んでいる。
父は85歳で元気である。記憶に残っている事が2つある。
出始めのインスタントラーメンを夜、父と作り、一緒に食べているシーン
夜中に父が寿司の折り詰めを持って帰り冷蔵庫で冷たくなったかっぱ巻きを翌朝食べているシーン。
過食が贅沢だった時代である。
僕は遺伝形質を受け継いでいる。そして父は、糖尿病ではない。その差はどこにあるのだろうか。
僕は18歳で東京に行って糖尿病と診断されるまでの13年間(1年新潟に帰る)東京で一人暮らしをしていたのである。
当然なのだが、この12年間、食事を気遣ってくれた家族がいなかった。
外食と、自炊(炭水化物中心の栄養学的に正しくない食事)で体が構成されていった。
今に至るレールはこの時に敷かれたのである。
確かに、食生活を選ぶのは自分である。
しかしながら、それ以外の道を選べない場合、果たして責任があるといえるだろうか。
グローバリズムが破壊した私達を守るバリア
グローバリズムは「市場経済」をその本質とする。
「グローバルな『食事』」という商品・サービスが存在するという幻想に囚われているのである。
人一人一人が違うように私たちに必要な食事は違っているのだ、ひとりひとりの正義が違うように。
今の食環境は徹底的にグローバル化されて金儲けに使われている。
また、コンビニや大手スーパーが価格競争によって地元に根ざした小売店を駆逐した。
かつて小売店は生産者と消費者を結びつける結束点であった、
コミュニティがそこにはあり、家族のために買い物をして、父母と共に料理を作り、食事をしていた。
様々なバリアが私達個人を守ってくれていた。伝統や、地域、職場、家族、お隣さん、親戚、私たちは多層、多重なコミュニティにくるまれていた。
そんなバリアをことごとく破壊したのが、この30年なのだ。
地産地消と言う言葉が発明されたのは1980年代だというが、つまり、それ以前は当たり前の事だったのだ。
『百年しばた』と言う市民団体を主催しているが、大事な主題である。そしてそれらは、すでに取り戻せないものと知っている。新たに作らねばならないのである。
【社会の問題というのはなぜか】
今の社会は大変なブラック社会である。
夫婦は共働きが当たり前の社会階層がいる。
夫の年収と家族の維持に必要な経費の関係で浮き彫りになる階層である。
また、『食事作りの学習』の機会が決定的に欠落している。
学校教育の「家庭科」で料理や栄養学を習うが、役に立つものではない。
『老化が早く来る病気』と糖尿病を捉えることで、色々なことが見えてくる。
【炭鉱のカナリア】
アトピーの方のページを見つけた。
興味深く読ませていただいた。
ステロイドは大変な特効薬なのだが、多くの問題を抱えている。
まさにインスリンと同じ問題を持っている。
以前に随分ADHDについての考察を行った。
社会の中で敏感であったり、特定の組み合せで最初に発病して、その社会の問題点を明らかにしていくのだ。
そんな事を考えている。
文学者を『炭鉱のカナリア』よ考えたのは僕の大好きなカート・ボネガットさんの言葉。
【自己責任の補論】
日本では様々な問題が起こった時に『自己責任』と言う言葉が聞かれる。
特にに税金が使われた場合著しい。
ああいう論調を進める連中は「自分は絶対にそうはならない」と言う根拠の無い確信んお腹に生きているのだろう。
『被害者の家族の気持ちになってみろ』などという言葉も自分の家族は加害者にならないという根拠の無い確信から生まれる。
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人工透析と糖尿病の類似点
人工透析と糖尿病の類似点を思って事がある。
- 作者: リュウ・ウェイ
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- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『なぜ私は人工透析を拒否してきたか ーー腎不全発症から10年ーー』
リュウ・ウェイ著 2015/5
を少し前に買って読んだ。
素晴らしい本だ。
すぐに立て続けに腎臓病の本を読んだ。
今日は風邪の1日なので読みなおしてみた。
彼女は、人工透析や腎臓移植が必要だと言われながら、自分の生活を変えて、やりぬくのである。
僕の、糖尿病体験と一致するところが多い。
共感することしきりである。
「保存型腎臓病」という言葉有ることを知って、興味がでた。
医者が投薬や治療ができないレベルの状態だそうだ。
糖尿病の場合は「境界線型」という、インシュリンも投薬も出来ないレベルなのである。
この段階で医者に行くと僕のようにひどい目にあう。
守れないルールと、患者に責任を押し付けるための「教育」が徹底されるのである。
糖尿病は、社会の病理が個人を通して出てきているものであり、決して個人の責任ではない。
行動でカナリアが死ぬのは、カナリアが空気の汚れに敏感で感じやすいからである。決してカナリアのせいではない。
次に死ぬのは鉱夫なのだ。
自分自身で病気と向きあうべきなのだということをリュウ・ウェイさんも繰り返し語る。
.............大切なことは、自分でそれを決めていくことです。
自分の体を知り、習慣を知りそのうえで何をするかを決める、ということが病気になるならないにかぎらず、大切なことだということを、私は腎不全と共生したことで学んだと思います。(P129)
............腎臓が悪くなったのは私の人生です。自分の人生に起きたことは自分で責任を取っていく他有りません。自分にとって何をするのが良いのか。それを探り。選択していくことが生きる道だと思います。(P148)
いい本である。
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